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誰のもの? [主張-時事]

今年も残すところあと2ヶ月。
そろそろ2005年を振り返ったり、いやまだ早いと思ったり、そんな今日この頃。
ちょっと思うところを述べてみる。

今年あった幾つかのニュースに共通するキーワード、それは
「誰のもの?」ということではないだろうか。

例えばホリエモンVSフジテレビ騒動の時に起きたのは、
「会社は誰のものか?」という議論。

村上ファンドの阪神タイガース買収問題の時に起きたのは、
「球団は誰のものか?」という議論。

そして、個人的に注目している都市再生、景観云々の問題で考えられるのは、
「街は誰のものか?」という議論。

ああだこうだと言われているが、「なるほど、これは納得できる」という話を
聞いたことがないというのが本音のところである。
逆に、「それは違うのでは?」という意見にもあまり出会わない。

つまり、小生は「誰のもの??別に誰のものだっていいじゃん」と思っている。
会社なら会社、チームならチーム、そこに関わる全ての人が各々「これは俺のもの」
或いは「これは俺たちのもの」と思っていればいいのではないだろうか。

社長だろうが株主だろうが平社員だろうが、末端のパート・アルバイトに至るまで、
全ての人がそこに関わっているという自覚を持たなければならないと思う。
「自分は所詮ただのバイトだから会社の将来なんて気にしなくていい」なんてのは
間違った発想であり、こういう思考法がとりわけ若い人の間で蔓延している限り、
ニートだのフリーターだのと言われる連中の意識は変えられないだろう。
さすがに会社の将来は極端であっても、自分がどんな身分であるかに関係なく
目の前にある問題は真剣に考えなければならないと思うし、言われて動くんじゃなく
言われる前に自分で仕事を探してするというのが小生にとっては常識の範囲で、
それができない人間はだめなんじゃないかと思っている。
勿論それができる人間もできない人間も同じ時給である以上は、そういう何でも
気にかけて真面目に捉えようとする人間は「効率が悪い」「馬鹿だ」ということになるのだろう。
いや、果たして本当にそうだろうか。そういった「自分はこの程度の身分だから」とか、
どこかのパートで、一部分で役割を演じているという文化はこの国を衰退させると思う。

だから、「俺のもの」とまではいかなくとも、「自分は関係ない」という意識は捨て去らなければ
いけない。「自分一人欠けてもこのチームの将来はない」くらいに自分に言い聞かせて
マインドコントロールして、「どうせ自分がやらなくても誰かやってくれるだろう」じゃなくて
「誰がやるかわからないけど自分が率先してやる」という意識でいなければならない。

正直、こんなことは敢えて言うまでもないことだろうし、そうは思わない、それは違うと
言われてもそれを認めることは多分小生は一生できないだろう。非効率だと言われようと
無駄だと言われようと、もはや体に染み付いているから今さら変えられないし、
下手したら自分の身の回りにいる人間には皆そういう意識を持ってほしいとさえ思ってしまう。
間違っているだろうか。

ただ、こう言うと語弊があるようなので一応断っておきたい。
「自分のもの」という意識を全員が持つということは、全員が自己流を押し付けようと
対立し合うことではない。

まずは全員が意識を持つこと。これは最低限のやるべき段階で、これで初めて議論の
テーブルに着けるのだ。そしてここから、対立する人を跳ね除けるのではなくて、
議論をし合っていく必要性があるのだ。

「街は誰のものか?」という議論においては特にこの部分で常に問題が起きているように思う。

シモキタ再開発問題では下北沢に住んでいたりそこで商業を営んでいる人の意見も
ここのブログのコメント欄も含めて色々聞かせていただいたが、正直違和感を感じた。
彼らは何だかんだ言いながら根底の部分では「この街は俺らだけのものだ」という意識を
お持ちのようだ。それで、ヨソから入ってきてドンチャン騒ぎをやっている連中が
「街を守ろう!」ときれいごとを叫んでいるのは気に食わないようだ。
勿論、一定部分においては理解できる。地元に住んでいる人が嫌だということ、こうしたい
ということをおそらく再開発反対派は真摯に捉えていないのではないだろうか。
だからといって地元住民は反対派の言ってることに耳を傾けなくてもいいのか。
それは違うだろう。きちんと互いの主張する背景、何故そう思っているのかという事情を
互いに理解しようという姿勢を見せなければならないだろう。

あちこち話が飛んでしまったが、つまり言いたいことは
「大きな声を出している誰かに任せて自分は知らん顔」という姿勢、
「自分が絶対、相手は間違っているのだから叩いてもいい」という姿勢は
改めなければならない、ということだ。
最近ニュースを見ていると、政治や社会や世論の動向を見ていると前者が顕著に、
報道系のいわゆる「憤慨レポート」というのを見ていると後者が顕著に、感じられる。

今のこの国民の状況というのは、戦争をやるにはもってこいの状態なのだろう。


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nurumayubiyori

「会社の重役」と「アルバイト」では待遇(=権利)が違いますから、
自覚(=責任)の格差は、えてして発生するものかもしれませんね。
ニートにはきちんとした自覚を持ってほしいとは思いますが、
そこで自覚が持てるような人間は、そもそもニートにはならないか、と。
終戦後、とかく敬遠されがちな愛国教育ですが、「日本を自分達の手で発展させる」という自覚を培う為には、帰属意識を伸ばす教育も必要かと。至極個人的な意見ですが・・・。
憤慨レポートのくだりについては、同感です。
by nurumayubiyori (2005-11-05 11:50) 

えいこう

拝読していて、「自分のもの」という意識は、「責任感」に通じるのかと思いました。
最後のくだりは、思いやり、相手の立場に立って考える事が大切なんだと、共感した次第です。
by えいこう (2005-11-06 22:52) 

俺

大昔に「王と使者」というカフカの短編寓話をご紹介したのですが、↓
http://blog.so-net.ne.jp/metro/2005-05-05

今の世の中はそれどころか、使者にすらなろうとせず、ただただ言いなりになったり、自分の身辺さえ安定していればそれでいいとか、或いは無気力・無関心になったり…どうも、違和感を感じます。おそらくこれが今の社会の大多数であり常識なのでしょう。だからこそ、常識を超えた非常識でありたいと思っています。勿論、ただの非常識では社会に適応できないニートと同じですから、「超越した」である必要があるのです。常識を学び、知り、適応し、尚且つ常識の信仰者とされる大多数に自分を分からせる努力、これが「常識を超えた非常識」に求められるのだろうと思っています。
by (2005-11-08 01:53) 

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