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理解 [主張-ひと]

自分の中では至極当然のことなのだが、敢えてこう言わなければならないのは、
言わないと通じない憂き世の中になっているということなのだが…

「人は、分かろうとし、自分の分かろうとする範囲で、
 分かったと思い込む範囲でしか分かることができない。」

これは我が師匠の言葉である。つまり、人それぞれの水準により決定付けられる
ということだ。「ある人はこの程度まで理解した。」というのは、その人がどこまで
理解しようと努めたか、ということと、どこまで理解できる能力を持っているか、
ということに依拠する。そして、理解とは思い込みである。「私はこう理解した」と
飲み込むこと、すなわち思い込むことで理解は出来上がる。

だから、ある一つの事象を以っても、無限の理解がそこには存在するわけだ。
「分かろうとする範囲」で言うならば、例えば
「明徳義塾が出場辞退」という一行だけしか情報を獲得する努力をしない人は、
「ふーん」で終わらせてしまったり、「なんか悪いコトしたんでしょ?」「裏に大人の
事情があるんだな」と妄想を膨らませるかで終わるだろうし、それ以上に真実を
追究したいと思う人は、新聞やテレビの報道を吸収しようと努めるだろう。その結果、
「部員が喫煙に暴力。これは致し方ない」と捉えたり、「この監督はなんで隠ぺい
したのかな」と捉えたり、見解は複数に分かれる。

そして、人は往々にしてそこに一つの正解を見出そうとする。「真相」というものだ。
しかし、これははっきりいって何ら意味を持たないように思える。
なぜなら、事の当事者でない限り、その時その場で何があったかを知ることは
できない。知ったつもりでいる(=思い込み)のは、それは自分が絶大な信頼を
寄せる新聞がそう語っていたから、或いは「当事者の知人」が証言していたから、
或いは「警察・裁判所が認定した」といった情報を「真相」だと認定するからであり、
しかしながらそれはあくまで認定に過ぎない。たとえ国民の9割が同意見を持とう
とも、最高裁で判決が下ろうとも、真実は違っている場合もある。しかし、それを
「真実だ」と認定し、いうなれば「作り出している」のが現状だ。
常識というのはそういう過程を経て作り出されている。多数決か、権力の決定かの
どちらかである。本当のことは、もはや当事者でさえ余計な情報でもって喪失して
しまうかもしれない。
だからこそ、小生は「真相」には何ら意味を持たないと考えるのである。

しかし、それでもなお我々はニュースに対する興味関心を失ってはならない。
世の中に対するアンテナを狭め、シャッターを降ろしてはならない。
なぜなら、そこには「深層」が存在するからだ。
小生はここでの場合「深層」を「表層」との対比で用いている。
表層とは端的に言えば「人の噂」である。「明徳の部員はけしからんねぇ」「監督は
隠していてひどい」「高野連は厳しすぎる」…等々の、ワイドショー的な覗き見主義。
これらは、決してそこから何か自分にためになる情報を見出そうという動きでもなければ、
事の当事者を褒めるかけなすかの評論でしかなく、所詮時が経てば忘れてしまう
「井戸端会議の話題」に過ぎないのである。こんなものを評価する気はさらさらない。
肝腎なのは、そのニュースが持つ深い部分での意味だ。事件が起きたら、
「悲惨ですね」「残酷ですね」の感情論で終わらせてはならない。その向こうにある
「時代のメッセージ」を切り拓いていかなければならない。その重い思いを小生は
「明日を拓く」というタイトルに託しているわけである。
事件が起きたら、「こうした事件がなぜ現代に起きたのか」「犯人はどういった背景を
持っているのか」「この場所にはどんな意味があるのか」等々の分析は必要だし、
「こうした事件を教訓に我々は生活のどんな部分を改めなければいけないのか」という
注意喚起も時に必要だし、常に他人事だという意識を捨て、自分の身を省みて自分の
生き方の問題と照らし合わせていかなければならない。「事件を教科書にする」とは、
そういうことだ。

当然、ここでも様々な見解が生まれ、切磋琢磨しあって良い。そこでもなお、やはり
個々の見解を決定付けるのは、各々の理解の範囲とそこからどう見出すかの
レベルの違いだろう。
自分が実際に高校球児だった人、酒飲み、歴史研究家、金に苦労し生きてきた人、
算数の得意な小学生……一人ひとり異なる背景を持っている。皆違う生き方をしてきて、
異なる人生経験から視野を決定付けてきている。

そして、情報の収集量によっても意見は変わってくるだろう。
「実は暴力事件といっても殴られる側に事情が…」
「いや、全面的に殴った側に非があった」
「明徳の監督はかつて星陵松井秀喜に5連続敬遠をやった監督」
「実は面倒見がよく部員全員から慕われている名監督」
どれが本当かはさておき、各々得た情報を自分の中で反芻して、自己の意見へと
つなげていく際、その情報の収集量も異なれば、反芻の方法も異なる。そして、
自分本位に自己満足に終わらせることなく、様々な人の意見を聞き、理解しようと
した上で、賛同或いは反論を通じて、議論を高め、切磋琢磨していく。
その結果、自分の持っていた意見は変わるかもしれない。変わらずゆるぎないものに
なるかもしれない。どちらにしろ、こうして人と人はぶつかりあって、成長すべきでは
ないか。その素材として、ニュースは活かされるべきではないか。こう思うのである。

安易に報道を鵜呑みにして過信するのは、それは自分の意見を持ったのでも
なんでもなくて、単に自己を多数派に帰属させ安心させているだけだ。だからこそ、
時が経てばどんどんニュースを忘れていくし、所詮はワイドショーの覗き見レベルでしか
発言をできないのである。

報道の仕方を問う以上に、報道を捉える側が変わらなくては、
この国は変わらない。
自分の理解水準を拡張していく努力なしに、人は成長できない。


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コメント 4

えいこう

こんばんは。
この記事は、俺さんが折に触れご自身の記事やコメントでおっしゃって来られた事の、総括のように思いました。
私もこの記事に触発され、常々感じていた理解度に関する違った事例を、この記事を受ける形で書いてみました。更には、私が考える個性にも繋がる印象を受けましたので、それについても続けて書きました。
冒頭、俺さんの御師匠の言葉が印象深く、引用させて頂いきました。更にはこちらの記事が前提になっておりますので、合わせて読んで貰いたく、リンクを貼るという形をとらせて頂きました。以上二つの点につきまして、ご了承下さい。
尚当該記事は、9日午前0時過ぎに公開する予定です。
by えいこう (2005-08-08 00:43) 

俺

そうですね。総括っぽくなってる気が…
ブログ上で思うところを述べる述べないにかかわらず、日常生きていく上でこれは今自分の中でゆるぎない信念になっています。まだまだ20歳の若僧ですが、これから社会に出て行く上で、この信念を全うできる仕事ができればなぁと、ぼんやりと考えています。
by (2005-08-08 01:20) 

参明学士/PlaAri

TBありがとうございました~。とても興味深い記事ですね^^
俺さんの仰ることは突き詰めると、「理解」は各人間に属するということになるのでしょうね。仰るとおりだと思います。そしてそれが人間に属するという以上は「人間とは何か」を追求していく必要にも駆られていくように感じます。
私は報道される事象そのものの真偽はもとより、「その情報は国民にとって必要か?」という視点を持っています。三面記事に書かれていることは果たして圧倒的大多数の無関係の人間にとって必要であるかどうか。そしてそのえげつなさを楽しみ他人の台所騒ぎを覗き見する記事のまわりをうろついている広告の存在も目に余ります。皆、同じ穴のムジナか??と。
そもそも新聞報道等の歴史を例に取れば、イギリスでは罪人の公開処刑の変わりに罪状・裁判報道が台頭してきた事実があります。本来民衆への脅しのための見せしめだった公開処刑が廃止に追い込まれたのは、斬罪する側にひそむ「人間の人間に対する裁き」の違和感に他ならず、その代わりに台頭したのが新聞等による「罪状報道」でありました。それは当初警察と密接に結びついており、犯罪抑制に効果をもたらしたとさえ考えられています。公開処刑の代わりに犯罪報道が民衆の自制心に影響力を及ぼしていたということです。今ではかなりそうした効果があるかどうかは疑問ですけれども(ものすごく端折っていますので、要領を得ていないかもしれませんが…)。

ところが近年の報道は週刊誌でもワイドショーでも、「人間が人間に容赦なく裁き・非難を加えている」という痛ましい現状が見て取れます。コメンテーターと呼ばれる人間の傲岸不遜な解説、論を構成する重大な要素である事実確認の軽薄さ、自分のことはまるで棚に上げて他者を誹謗することで喜悦を得ている人間、世の風潮が上になり手前勝手な解釈を披露し、事実の土壌となった原因の分析を怠るスタンス。昼夜を問わず相手の心情すら無視しきった突撃リポーターの取材攻勢の愚かさは、もはや怒りを通り越して滑稽ですらあります。あんなことをして国民に何の価値をもたらすのか。理解に苦しんでいるのは私一人ではないと思っています。翻って言えばそうした番組が存続するのは報道の受け手が幼稚であるからということでもあるのでしょうね。

>報道の仕方を問う以上に、報道を捉える側が変わらなくては、この国は変わらない。

まったく仰るとおりだと思います。そして捉える側の変革はすなわち「人間」そのものの変革というテーゼに突き当たると思います。現代ほど、考えるという作業である「哲学」が希求されている時代はないのではないかと思います。
by 参明学士/PlaAri (2005-08-19 17:46) 

俺

そうですね。イギリスの罪状報道のお話はなかなか興味深いです。確かに今の「三面記事」とか「ゴシップ」とか呼ばれているものは果たして何のためにやっているのか、やる必要性はあるのか、と問えば、かなり疑問に思います。「人の不幸は蜜の味」なのでしょうかね。理解できない感性ですが、これが国民の多くが望む情報だとして、果たして単純に多数決的に流して良いものかどうか。しかし様々な利権や何やらが絡んでいる報道の世界ですから、きれいごとだけでは解決できないでしょうし、難しい問題だと思います。
by (2005-08-20 01:56) 

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