結果が全て… [主張-ひと]
よく、「何だかんだ言っても、やることはやってる」とか、「どれだけ大口を
叩こうと、無礼であろうと、勝ちゃぁそれでいいんだろ」といったことが言われる。
これは、そろそろ見直されていい時期に来ているように思う。
腕組み [主張-ひと]
小生は心理学というものを基本的に信用しないので、逆にあれに絶対的な法則性を読み取ろうとしている人や心理テストが大好きだという人たちにはどこか一線を置きたくなってしまうところがある。
ある人が書いていた文章によると、「腕組み」というのは心理学の世界では拒否のサインらしい。
例えば、相手に一生懸命喋りかけて、相手がうんうんとうなづいてくれたり理解を示す言動をしてくれたとしても、相手が腕組みをしながら自分の話を聞いていたら、それは自分を受け入れてくれる気がまるでないというサインなのだそうだ。自己防衛、受け入れ拒否、抵抗の無意識な感情が腕を組むという動作に表れるのだそうだ。
本当か?
少なくとも小生に関してはその法則には当てはまらない。
小生も腕組みをしていることがよくあると思う。自覚は一応している。
しかし、それは「うんうん」と心底思っている時でも、「理解できないけど一生懸命分かろうと反芻している」という時にも、腕組みをしている気がする。
これは一種の癖である。
もっと言うと、手の置き場に困って、でも話に集中したいからとりあえずコンパクトに固めて手を気にかけないようにしようという意識である。
だから、断じて相手を拒否するということではない。
もう一つ、小生は一瞬沈黙があったり無視と思われるような間があった後に相槌を入れることがある。
これは、少年時代に聞いた話を未だに実践しているからである。
どういうことか。その前に、決して「ハァ?なんだこいつ?」という拒否・否定の意識ではないことだけは強く主張しておきたい。
これは、「中国人の相槌と日本人の相槌」という話が大元である。
日本人は、礼儀として大人になればなるほど、相手の話に常時定期的に相槌・うなづきを入れ、「うん」とか「はい」とか「えぇ」とか言ったりする。
しかし、中国人は相手の話を聞いて、自分が本当に理解するまではうなづかず無言を貫く。そして、分かったとき、はじめて「うん」とうなづくのだ。
…本当かどうかは知らない。そもそも我が21年間の人生で中国人と関わったのは大学のアジア地域分化論の教授と職場に来る出前の中華料理屋のお兄さんだけだ。彼らがそうしていたかどうか、記憶にない。
でも、この話を聞いた時~小学生だったと思う~、なるほどと思った。
自分が理解してもいないのに、挙げ句それはおかしいと思ってさえいても、日本人はヘェヘェと頭を下げ相槌を入れる。これに抵抗を覚えたのだ。
それ以来、全部が全部そうしているわけではないが、本当に自分の中で消化し切れていないときは、反応が遅れて沈黙を置いてしまうことがある。
これを、心理に長けた人間はその物差しで一面的に小生を判断し、心を閉ざしていくのだろう。距離を置いていくのだろう。
それは仕方がない。所詮心理を学ぶ人間は心理にとらわれ、こだわり、呪縛となって一面的な視野狭窄に陥るのだ。「これをした時は相手はこう思ってる」とか何とか、勝手に言っていればいい。
しかし、こっちが誠心誠意相手を受け入れようとして、集中力を高めるために腕組みをしていたとしても、心理に長けた人間は「なんだこいつ、俺の話を真に受けてないな」と内心思っているのだ。
残念だ。
やだねぇ…
と、気づけば小生も門扉を閉ざしている。
いかんいかん、これは視野狭窄だ。
やっぱり、腕組みをしてる人は相手を受け入れてないのかな。
男女間の欲望における諸問題 Ⅳ [主張-ひと]
男が彼女のためを思って一生懸命働いて溜めたお金でブランドモノのバッグを買ったとする。
で、それをもらう彼女。しかし、彼女はそれをもらった足で質屋へと直行する。
そして、金に換える……
これは仁義とか人徳とかいうレベルでなく、もはやこの世に生を受けた生き物として、こういう種のヤカラには人権さえいらないだろうとすら思える。
ヒトゴトなのでどうでもいいが、しかしこれに対して「もらったものをどうしようとその人の勝手」などという理屈がまかり通るようでは世も末である。
まぁ最近人気の法律系番組ではこういうテーマを取り上げて男が「訴えてやる!」なんて言ってバッグ代金の請求やら慰謝料云々の話を展開していくのだろう。
しかし、どうでもいい。
女に生きる価値がないのは言うまでもないが、もっとタチの悪いのは男の方だ。そんな女を見抜けなかった責任はあるし、金をかけてブランド品でも買い与えていれば女が寄り付くだろうという発想が浅薄であり、大変見苦しい。
だが、法律という世界においては、ここで「所有権は女性の方に移行しており」「男性の名誉を傷つけたという意味で…」等々、実に人間味のない、というより実体から離れすぎたところに焦点が置かれている気がする。
法的な見解もクソもないだろう。こんなものは当人同士で解決すればいい。いちいち公的な機関が動く必要はない。何でもかんでも訴えてやるで世の中が幸福になるはずもないことを、分かっていながら利権に目が眩む三流弁護士。
最近「お金で買えないものはない」なんぞ発言する連中がいる。果たしてそうだろうか。こういう話をする時に大抵実例として挙げられるのが、「愛もお金で買えるよ」というもの。
さあどうだろう。君らが買っているのは本当に愛なのかな。
融通無碍 [主張-ひと]
日付が変わって、一番初めに目にした四字熟語がこれだった。
いよいよ本業が本格始動しつつある今日この頃。
この社会で生きる以上、いくらおかしいと思うものでもそれが流布している以上、やはり無視は出来ない。それを踏まえて、その中でいかに自分は生きていくのか、どれだけうまく生き抜くのかが問われる。
所詮、組織とか集団社会といったものにおけるコミュニケーションは演技・芝居にすぎない。相手を理解した上で、相手に同調する、相手に溶け込むのではなく、上手に合わせながら、同時に自己を見失わないこと。しっかりした軸を対極に持ち続けること。その上で、こうもできる、これにも合わせられる、という幅を持つこと。広い視野を持ち幅の広い人間になったとき、そうした浮世の幻想など、とうに超越した自己が確立できる筈だ。
個性 [主張-ひと]
ひとくちに個性と言っても、ただただ「個性を尊重しましょう」と言っていりゃいいわけでもなく、
それこそ個性なき安直な繰り返し言語に過ぎないのである。
一つ、こんな事例を出してみたい。
敢えて「こうだ」と断定的な物言いはしないので、各自心の中で考えをめぐらしていただけたらと思う。考えたことをコメント欄に記していただいて構わないので、どうぞ我が主張ではなく「考えるきっかけ」「素材」として、以下をお読みいただきたい。
弔い [主張-ひと]
永岡議員の妻が次の衆院選に出馬するという。
「○○の妻」「○○の息子」という理由だけで選挙に出るというのは良く見かけられるし、とりわけ死人の後釜というのは、何年か前の小渕優子議員の際もそうだが、家柄だとか地盤だとかいった安定票に加えて、同情票も少なからず取り入れているようで、当選するための戦略としては巧みなものと言えよう。
しかしながら、これは見ていて気分がいいものではない。
左利き [主張-ひと]
実はこちらの記事を読んでからずっと書こう書こうと思っていたのだが、
やっと重い腰を上げることができた。
実は、小生も左利きである。何を隠そう、生まれてこの方、書くのも投げるのも箸も、
殆んど左手を使用してきた。
そこで、今回は左利きということについて考えてみたい。
理解 [主張-ひと]
自分の中では至極当然のことなのだが、敢えてこう言わなければならないのは、
言わないと通じない憂き世の中になっているということなのだが…
「人は、分かろうとし、自分の分かろうとする範囲で、
分かったと思い込む範囲でしか分かることができない。」
これは我が師匠の言葉である。つまり、人それぞれの水準により決定付けられる
ということだ。「ある人はこの程度まで理解した。」というのは、その人がどこまで
理解しようと努めたか、ということと、どこまで理解できる能力を持っているか、
ということに依拠する。そして、理解とは思い込みである。「私はこう理解した」と
飲み込むこと、すなわち思い込むことで理解は出来上がる。
敗北力 [主張-ひと]
ソニーの出井前会長が放つ言葉には、とても深みを感じる。
例えば、「うちが欲しいのは1%の天才と99%の従順で真面目な一般社員」という言葉はまさに企業内部の本質を突いた発言だと思う。
先日の退任会見の際にもこんな言葉を述べていた…
この国のどこかで、輝く可能性を持つ全ての人へ 【下】 [主張-ひと]
昨日の続き。
ダイエーの新会長・林文子氏をご存知であろうか。
林氏は我が母校の出身者ということで、実はこのブログをはじめた初日に少し触れているのだが、
(あ、福知山線事故の記事でも書いてますね。)
改めてこの人の凄さを紹介したい。
この国のどこかで、輝く可能性を持つ全ての人へ 【上】 [主張-ひと]
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050705/mng_____tokuho__000.shtml
先日の東京新聞(中日新聞系全国各紙)の特報欄に、
ある女性の生き様が描かれていた。
それはあまりにも心を動かすものがあった。
(以下小生の駄文と併せて、是非とも上記記事をお読みいただけたらと思います。
きっと心に響くものを感じとることができるはずです。)
ウルトラマンが3分以上地球にいられない理由 [主張-ひと]
先日身辺批判を行ったが、中には「辞めます宣言か?」と感じ取った方もいられるかと思う。
しかし、この点についてははっきりしておきたい。
先日の痛烈すぎるまでの身辺批判は、自己を喪失しないための「対角線上に置いた指標」であり、辞めるどころかむしろ「辞めないための」宣言文である。