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ボランティア [主張-時事]

揺れる日本列島。新潟に福岡にと全国各地で揺れるきょうこの頃だが、揺れているのは大地だけだろうか。きょうはかなり過激な切り口から昨今の世相を問うてみたい。
我々の一般的な認識として「ボランティア」という言葉に悪い事は一切含まれていないと考えられている。しかし、本当にそうだろうか?
この問題を、「ボランティアされる側」「ボランティアする側」、二つの側面から検証していきたい。
まず、「される」側。失礼を覚悟で言う。「してもらって当然」という認識を持っていないか?「自分は被災者なのだ。かわいそうな立場の人だ。優しくしてもらって当たり前」と。これは被災に関わらず今日全ての分野で人々に嗜好されている「被害者立場」だ。自己が弱者・被害者という立場であることを主張した上で権力へ立ち向かっていくという構図だ。
無論、実際に被害に遭われているのだから何よりもの前提として被害に遭っていない人が手を差し伸べなければならないことは確かであるし、被害に遭っている故のヒステリックというか、精神的にも参ってしまって多少傲慢になってしまうのは理解できるし致し方ない。
だから、あらかじめ断っておくが、これは全てのボランティア活動ならびに被害者の意識を否定するものではなく、あくまで極論として述べているわけで、もし異論・反論があればそこをご理解いただいた上でさらに納得できない点を追及いただきたいと思う。
だから、ボランティアというのはあくまで「臨時の」ものでなければならない。「する側」「される側」という構図はできるだけ早く解消した方が良いし、解消する努力を双方で不断にしていかなければならない。
お恥ずかしい話、小生はつい最近まで「情けは人のためならず」という熟語を「情けは本当にその人の為はならないのだから、過剰にやってはいけない」という意味だと思っていた。いや、正確に言うと今でもそうだと認識している。
こんな話がある。阪神大震災におけるエピソードだが…
「おばあちゃん、大丈夫ですか?何か私にできることはありますか?」
「あぁ、ありがとう。そうね、今私すごく寒いの。毛布を持ってきてくれる?」
「はい、持ってきました。おばあちゃん、他に何かお困りなことはありますか?」
「そうねぇ、温かいスープが飲みたいわ。」
「おなかもすいたわ。食べ物をちょうだい。」
「ちょっと疲れちゃったから肩揉んでよ。」
…と、このように絶え間なくエスカレートしていく要望にそのボランティア者は傲慢さを感じるとともに自分の行いに疑念を抱いてしまったという。その通りだと思う。何でもやり過ぎる優しさは逆に相手を駄目にしてしまう結果となりうる。
ただ、以上はあくまでその優しさを全否定するものではない。絶対だと信じていた自分の暮らし、街の景色、我が家が一瞬にして崩壊してしまったのだ。そうした被害に遭われた方の気持ちを察し、立ち上がる第一歩を助けることは決して間違ったことではない。しかし、敢えて小生は声を大にして言いたい。真の優しさとは、時に厳しさの中にもあるように思う。真の優しさとは、一介の通りすがりのコミュニケーションであるように思う。「きっかけ」であればいい。ずっと優しくし続けていくことにより相手を駄目にしたり、おかしな権力構図を引きずってはならないと思うのである。

次に、「ボランティアする側」だ。
以上に論じたことから大体推測していただけると思うが、小生が指摘したいのは二点。「自分がそうすることで偉くなった気でいないか?」「何か見返りを求めていないか?」ということだ。
何か、自分がボランティア「してあげた」ことで自分が正義のヒーローなんじゃないかと勘違いしてしまったり、自分が偉いと思われていらっしゃる方が多々いる。その証拠に、自己のボランティア活動を履歴書に書く大馬鹿者が後を絶たない。
実体験から論じさせていただく。小学生の時、「老人ホームに一日ボランティアに行く」という活動を小学校が地元老人ホームと提携していて、その説明会に参加した。小生は毎年参加していたのでその活動がいかに地味で参加者が少ないか認識していた。しかしいざ会議室のドアを開けてみたら、例年にない20~30人の参加者が…その殆んどは6年生であった。どういうことかもうおわかりであろう。彼らは中学受験の履歴書に書きたいから集まっているのである。たかが11,2歳にしてこんな世の中の渡り方をしているのである(って…自分も同い年だけど)。激しく腹が立った。で、言ってやった。思ったままの事を。小生は皮肉と悪口が大得意だったので、当時(今でも??)何とも生意気なガキであった。そんな気持ちで大勢の少年少女に来られたらお爺さんお婆さんもいい迷惑だろう、と言ってやった。
まぁでも今にして思えば、お爺さんお婆さんはそういう日常に慣れていたのかもしれない。何故なら、老人ホームを訪問する小学校はうちだけではない。日常茶飯に子どもが来訪し、その度に一緒に歌を歌ってあげて、「ありがとう、助かったよ」と演技していたのかもしれない。子どもの豊かな人格を形成するために一役買っていたのかもしれない。毎回毎回同じように戦争の話をするのにも慣れていたのかもしれない…
ボランティアをする?別に声を大にして主張することではない。やって当たり前だ。そう信じている。
また、ボランティアをする人にはそれぞれモチベーションがあると言うが、そんなものどうでもいい。仕事と違ってお金ももらえないのに、よくやってる…というが、別にだからと言って賞賛に値することではないと思う。
逆に、モチベーションなんて持ったところで、厄介になるだけだ。例えば「ありがとうと言ってもらえると嬉しいしまた次にボランティアをするモチベーションにつながる」と言うが、それは別に構わない。しかし、いざ自分が親切にしてもお礼を言ってもらえなかったりそっぽを向かれると、腹を立てるのだろう。一気に、相手のためじゃなく自分の自己満足でボランティアをやっていたことが露呈される。
どこの誰か名乗ったり見返りを求めたりせず、できるのが本物じゃないのか。そして、本当に相手本位で行う、ということを知ってほしい。つまり、その人を自分なしでは生きられない状態に堕落させてはならないということだ。

「善意」とは何か。募金箱に10円入れるだけで自分がいいことをした気になっている人もいる。「スマトラ沖地震に○○億円寄付した」と言って売名している人もいる。そんなことをしないで、研究室に篭って日々地震予知の研究をしている人もいる。朝の5時からネクタイを締めて気象庁で大勢のマスコミを相手に会見を行っている山本氏もいる。この世の中で、自分には何ができるか。「使命」を考えなければならない。


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