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マジックミラー [主張-時事]

PC内のデータ整理をしていたら出てきた。
これは小生が高2の時に書いた文章である。
丁度4年前の冬、9.11が起きてアメリカがビンラディンを追い回し始めた頃の考察であることは 内容からも判断できる。

 
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 「日本人は楽しむことを知らない!何かと理屈をつけたがる!」どこかのマジシャンのセリフだ。アメリカ人だったか。
 彼の発言はつまりこういうことだ。日本人は一たびマジックショーを見るとなると、必ず「診たがる」のだ。仕掛けを自分の目で見て耳で聞いて頭で判断して知りたいのだ。何かにつけてトリックを暴こうと必死になる。「これは一体どういう仕掛けなんだ?」と種を探す。一方アメリカ人は「観る」のだという。たとえそれが虚構とわかっていても、それはそれでいいじゃないか、楽しもうよ、という姿勢だ。だから日本人は娯楽を純粋に楽しむことのできない民族なのだ、と。
 しかし、日本人が彼らの文化に相応しない、劣等民族だとは思わない。日本人は、「娯楽」の中に「芸術」を見出す術を持っているのではないかと思う。決して物理的に不可能であるかのようなトリックを使わずしても、わが国の文化は道端の石に意志を見出し、日常に侘び寂を生み出すということを伝統的に行ってきた。「そんな何百年も前の古い建物、ただの時代遅れのおんぼろ屋敷じゃないか。」と彼らは言うだろう。そこでこう返してみる。「では、お聞きしたい。時代に合わない非効率的な過去の産物が何故現代においてもなお生き続けているのか?」と。「うーん、それはつまりトラディッションなわけで、だから…伝統=残す。これは定説です。文化財保護法で制定されています。国際ルールに基づき遺産は…」いや、違う。タリバンの爆弾一つ以ってすれば石窟だろうが老木だろうがほんの一瞬でこっぱ微塵にできる。ついこの前見たじゃないか。君は忘れたか。そうではない。「残したいという人々の思いが集まって、見えない大黒柱を形成してるんだ。」と。
 しかし、ここで大きな壁にぶち当たる。「じゃあ日本人はどのようにして『残したい』という気持ちを形成してきたのだ?どうやって人々に教え込んできたのか?」ということだ。
 アメリカ式にやれば、法を制定して「守りましょうね」と徹底的に教育していくということか。近年日本もそういった風潮になりつつある。ではこれまではどうだったのか。
 日本人は、「娯楽」の中に「芸術」を見出す術を持っているのではないか?と先述した。これはつまり、定義づけということだ。きっかけは何でもいい。「この絵のパワーを感じた」「前々からこの作者の作品が好きだった」あるいは、こんな動機もあり得るだろう。「美術の教科書に必ず載ってるから優れた作品に違いないと思った」「三百万円で落札されたから」「ゴッホの作品だから」…こうして、我々は石ころに値札をつけ、価値を創造する。このようにして日本人は芸術品を伝承してきた。
 しかし、この「定義づけ」という作業に近年変化が見られるようになった。それは、動機の変化だ。
 定義づけをする際、人は何らかのサンプルを参照し定める。基準値を参照して「じゃあこれはちょっと多いからプラス三十円」というように。そのサンプルと照らし合わせて比較検討した結果、我々は物に価値を見出し、あるいは見出さないという価値の創造を行う。そのサンプルは、いわゆる「内在律」だ。それは人によって異なる。「感動した!」と一言叫ぶのも「うん、なるほど」とじっくり考えるのも、各々の内在する価値観が元になっている。
 ところが、近年人間の内面にある倫理や良心が崩壊しつつある。それに代わって外在的な要因が自身の判断に影響を与えるようになった。それはどういうことかというと、自分の頭で考えずに世の中の常識、多数派、一般論を丸写しするようになったという事だ。
 かつては、自分の五感を駆使して「これがいいかな」と選んでいた。しかし現在は、「こっちの絵の方が3万円高く値が付いているから、きっとこっちの方が優れた作品なんでしょう」となってしまった。あるいは、ブランド信仰。プラダのバッグが欧米より日本での売り上げの方が多いのは、単なる経済事情の問題だけではない。日本人には固有の「定義づけ」の歴史があって、その流れを受けて「外在のものを使ってはっきり定義させましょう」となったため、ブランド信仰がこれほどまでに強いのだ。
 「福袋」はその究極だ。人々は自分の目で商品を選ばず、値段とネーミングだけで中身の見えない福袋を購入している。ここでのネーミングとは、「『福』って言うくらいだからお得なんじゃないの?」というブランド信仰と「今まで福袋イコール正月のお得品の定番として世の中で認識されている」という常識・一般論の流布が合わさったものだ。福袋の流通とはすなわち伝統的価値判断の崩壊を意味しているのだ。
 このような世の中になると、何でもはっきり見えてないと不安になる。なぜならば、世の中の常識・一般論というバイブルが出た以上、それに反しているのにそれに従っているかのような虚構の価値観が出回る。詐欺とかニセブランド品とかがその好例だ。あるいは、ラベルを見て信じていたのに…という狂牛病問題や雪印問題などもこれに含まれる。
 虚構の価値観が真実(と勝手に定めている)の価値観と同時に出回った場合、どうなるか。人々は不安になる。そして虚構を排除しようとする。その結果、「何でもはっきりさせましょうね」という文化が蔓延する。冒頭に述べた「マジックの種明かしをしたがる」ということの原因はここにあるのだ。
 かつての日本は、マジックの中に価値を見出そうと食らいついた。アメリカは、「あー、なんか面白いことやってるわー」という受身のウキウキウォッチング。そして今の日本は…「何でもはっきりさせよう」と追求していった結果、マジックそのものの意義(何のためにマジックをやっているのか?ということ。アメリカ人は「エンターテイメントすなわち娯楽」と定義している。日本人は「職人の生き甲斐とそれを理解しようとする人々。すなわち芸術」と定義するだろうか。)を忘れて、「あそこでこういうトリックがあるから非科学的なことができるのか…なるほど」とお勉強している。本末転倒だ。
 決してアメリカ人のマジックへの楽しみ方がおかしい、と断定することはできない。かつての日本人にも「何にもありゃしないのに無理やりこじつけて価値を見出そうとしている」と批判できるかもしれないし、現代の日本人も「明確な価値に満足してるんだからそれでいいんじゃん、そうじゃないと世の中上手く渡っていけないよ」と評することができるだろう。正解はない。真実は一つではない。
 じゃあどうすればいいのか。「正解は無限にあります」「真実は一つじゃないんです」……で???っていう話だ。この「真実は一つじゃないんだよ」という言葉も、放った瞬間に一つの定義として生を受け、世の中に漂流していく。「一つじゃない」という一つの考え方として扱われるのだ。非常に危険であるし、こう言って片付けてしまったら非常にいい加減な対処である。ではどうしたら良いのか…。

(以下、駄文につき略。)

こうやって読み返してみると昔書いたものっていうのは到底読めたもんじゃないっスね。
もっとも、芯で展開している持論は今とそう変わりませんが。
この文、確かタイトルがマジックミラー。なんでそうしたかは、忘れた。
でも、分かる気がする。同時に、まだまだ甘さがある。青いねぇ、俺。
この後身の上に幾つかトラブルがあって、紆余曲折を経て、10年分くらいの
人生経験をしてだいぶ謙虚になりましたから、身の程を知る前の文章は
怖さもありつつ、今よりも鋭利な部分も感じるし、なんつうか、やっぱり、青い。

…多分自分の世界に入ってるので、理解不能でしょう。
ご意見ご感想、これについては特に必要としません。


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ニュー本間

どうもこんにちは。申し訳ないですが最後のほうは正直ダレてきましたが、
途中まではナイスx5くらい面白いです。
これで高2?すげえ!
by ニュー本間 (2005-12-07 21:51) 

俺

コメントありがとうございます。私自身、そのままコピペすると個人情報が若干混じっていたので読み返したのですが、段々飽きてきました…
長々とよく書いてますよね、俺。
by (2005-12-07 22:48) 

えいこう

文章力といい、洞察力といい、とても高校2年生とは思えませんね。
多少分かり難い部分もありますが、やはり持てるべき素養というのは、最初から備わっているのだと感じました。それを磨き上げつつ、現在の俺さんがあるんですね。
by えいこう (2005-12-07 22:51) 

俺

コメントありがとうございます。
日々自己研鑽という感じですね。
by (2005-12-09 08:15) 

nurumayubiyori

一気に拝読しました。力のある文章ですね。
拝読して、私なりに、思う部分・感じる部分が多々ありましたが、
それをここで伝えようと思うと、10000字ぐらいになりそう(笑)

>「正解は無限にあります」
私だったら、迷わずこのコトバを「一つの定義」として放ちますね。
多様な定義(=価値観)がぶつかり、交差し、融合しあってこその「社会」かと。
それらが継承、消滅、変容されていくのが「歴史」であり「文化」でもあるかと。
by nurumayubiyori (2005-12-12 14:40) 

俺

是非その1万字、読んでみたいです…なんて、書くの大変ですよね。
正解というのは数学の答えでもない限り、基本的に無限だと思ってます。だからこそ多様性を受け入れていくキャパシティと融合文化を作り上げていく能力が必要なはずなのに、世の中は一つの物差し(=定義・ルール)を作るのに必死になったり、自分の価値観を押し付けて挙句侵略戦争までしたり、なかなかうまくいかないようです…
by (2005-12-13 00:38) 

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