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評価 [主張-ひと]

当ブログ閲覧20000件を祝して、含蓄ある文章をお届けしたく思います。


我々は鏡を常に見る。それは、自分の顔、容姿を整えるためだ。化粧をするのもそうだが、男性であっても、髪型が決まっているかとか、目鼻にゴミがついていないか、など、外に出かける前には必ず鏡を見ているはずだ。
それは生き方についても同様だ。我々は常に鏡を見ながら生きている。それは、評価という鏡。「○○さんってこういう性格ですよね」とか、「あの人は成績優秀スポーツ万能だ」とか…
我々人間の欠点が幾つかあったとして、その最たるものを挙げるとしたら、それは自分で自分の顔を見れないことではないかと思う。
今自分が見ているものは、鏡に映した姿だ。左右反転というのは勿論そうだが、果たして鏡が真実を映し出すと、いつ決まったのだろうか?なんて考えることもなく我々は普段当たり前に生活しているが、実は鏡は時として目の前の風景を映していないかもしれない。
或いは写真。これも「色の信号」を風景・人物・物体として我々の眼が認識しているのであって、さらに言えば写真は「表情を作って」撮られたものが殆んどだ。もっと言おう。写真は過去だ。常に過去だ。現在でも未来でもあり得ない。昨日デートの帰りに撮った写真は昨日の自分と思われる人物が映っているわけで、きょうの自分は昨日とは確実に違う。微々たる差かもしれない。気分的なものかもしれない。しかし、同じではない。
だから、鏡に頼る。物理的にも、精神的にも。評価という鏡に頼って自己分析をしている。テストの点数。性格診断テスト。心理ゲーム。気の置けない(とされる)友人の助言。占い師の言葉。親の小言。あらゆる自分と触れ合う他の要素に対して、自己を映し出し、そこから自己の像を得ようとしている。
ただし、「天才」と呼ばれる者については、周囲の評価を逆に恐ろしい程気にせず、自己暗示をし続け自分を信じて活動し続けた結果、本当に世間から認められるということもしばしばある。

敢えて能書きや理屈は並べない。一つの事例を挙げたい。

小生が小学校2年生時の話である。

ある日、生活科の延長として「電車移動体験」なる行事が行われた。まだ一人で電車に乗ったことのない小学校低学年を対象にしたもので、5~6人のグループを作って駅へ歩いていき、自分達で切符を買って電車に乗って、隣の駅まで行って降りる、というものだ。
この際プライベートなことも言ってしまおう。その最初の駅というのは京王線の桜上水駅だ。それで
、下高井戸駅まで移動し、商店街を歩いて小学校へ帰る、という道程である。ここでの注意事項は、「桜上水には急行・通勤快速・快速・各停が停まるが、下高井戸には快速と各停しか停まらない。だから、間違って急行に乗らないように」というものだ。そして、京王線ユーザーならご存知だと思うが、電車の行き先案内表示では、特急は赤色で、急行はオレンジ色で、快速・通快は水色で書かれているというのも説明を受けた。
そして我々はいざ出陣したわけだが、当然小学校の授業の一環なので「制限時間」というのもあるわけで、「○時までに学校に到着しないといけない」とされていた。しかし、小学校から桜上水までは小学生の徒歩で少なくとも20分はかかる、長距離だ。ここで、我が班は遅れをとってしまった。

そして、駅に着き、切符を買ってホームに出た。すると、快速が来た。当然急いでいるので小生は「乗ろう」と言うのだが、しかし班員は皆反対した。
何故なら、そこにやってきたのは都営線の車両だったからだ(東京ローカルなネタですみません)。都営線の方向案内幕は、何故か快速も急行も全て赤色で表示しているのだ。そして、小学校2年生の学力では「快速」という漢字は読めない。だから、皆最初の説明時に色の識別法だけを覚えていたのだ。
しかし、小生は「快速」程度の漢字は余裕で読めた。しかも電車に関してある程度の知識はあったので、「行き先が新宿ではない=都営線に乗り入れるやつ=都営線に乗り入れる電車は(当時)全部快速」と知っていた。そして、「我が班は遅れている」という状況。ここで小生は乗ることを薦めたのである。しかし、班員は「赤だから特急だよ!ダメだよ」と、応じなかった。
ここで、馬鹿は誰になるか。当然少数派である。「赤色は乗っちゃいけないって言われてるじゃん」と小馬鹿にされたのである。
こんなもはや担任の教師さえ忘れているであろうイベントを小生は未だ根に持つかのようにして記憶している。

評価…正直なところ、ここ数年は他人の評価を必要以上に気にしていた。そして、正当に(あくまで自分の中での「正当」に)評価されていないことに対して不満を抱いて神経をすり減らしていた。
だが、今年の4月、川崎大師をふらふらと歩いていて、ふと悟った。決して成田山の信者ではない。小生は一切神仏に興味のない無宗教者であるが、ふと弘法大師の像を見て、考えた。
考えた、というよりは自然と想起していたという感じだ。限りなく無意識に近い状態だったが、こんな事を考えていた。
弘法大師は1000年も経ってなおこの国の人たちに名を知られ功績を称えられてこのような立派な建立物まで造ってもらっているのだ。そう考えたら、たかだか昨日今日の人の評判など、取るに足らないどうでもいいことだ、と。
その瞬間完全に断ち切ったわけではない。しかし、人の目、評価というものに対して一喜一憂する必要性がないことを悟ったのである。
今は雌伏の時だ。思えば去年の今頃は「雌伏の時こそ至福の時」など阿呆な事を言っていたが、それは違うと今ははっきり言える。今は雌伏の時だ。しかし、この状況に甘んじてはいけない。なおかつ、焦って上へ上へと進もうと足掻いてはならない。

ちなみに、若くして天才という人間が何人かいるが、思えば自分はどうだったか…。それにしても、本当に、頑張ってほしいと思う。





これは、10年後の神木君、そして、この文章を最後まで読んでくださったあなたに、贈りたい。同時に、自分へのメッセージでもある…

評価されないことに苛立ってはならない。だからと言って一切無視して自分の世界に閉じこもるのも、だめだ。 自分より努力していない人間が評価されていたって、それは一時のこと。それより、天才として伸びていける舞台を与えられているのは確かなのだから、裏切ってはならない。不断の努力を続け、謙虚に世の中を見据え、巧みに、したたかに、生き続けよ。


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参明学士/PlaAri

TBありがとうございました。そして20000HITおめでとうございます。
本文を拝見していて、以前に似たような記事を書いたことがあったなぁと思い出しました。その記事をTBさせて頂きますのでコメントに代えさせてください。
by 参明学士/PlaAri (2005-08-19 17:03) 

俺

わかりました。読ませていただき、そちらの記事に感想を書けたらと思います。数日後になってしまいそうですが…
by (2005-08-20 01:38) 

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