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境遇 [主張-ひと]

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「一つの事象に対し、人によって捉え方が違う」ということについてだが、

ととさんの言う
結局人が考えることは,自分がたどってきた僅かな経験や伝聞に拠るところが大きいんだと思う.
ということについては、全くもって同感だ。経験が「僅か」かどうかは分からない(できることなら豊富だと自負したい…)が、人はそれぞれ、全く異なる生き方をしている。本来それは当然のことかもしれない。

しかし、世の中に出ると、どういうわけか人と人とが関わるための暗黙の掟がある。それは「常識」であったり「慣習」であったり「ルール」であったり…
小生は今まで10年以上にわたって「普通」「常識」「当たり前」という言葉が大嫌いだということを明言してきた。最近は明言でなく「心に秘め」になりつつあるが…
人は、他人と関わる際に、できることなら相手と同調し、話を合わせ、共通の価値観を共有しようとする。勿論それが賢い人はごっこであるとわかっているし、出来ない人は振り回されていくわけだが…前者は「コミュニケーションは仮面と芝居だ」と明言するし、後者は流行に左右、人の噂に一喜一憂、雑誌の操作された世論に順応していくのである。
小生は紛れもない、前者である。だが、どちらかというと後者の方が世間一般では「賢い」とされる。楽に世の中を渡って行ける。それは実感として認識している。
しかし、皆がやってるから私もたまごっちほしいとか、皆が持ってるから私もプラダのバックがほしいとか、皆が着てないから私は省エネルックは着ないでクールビズだ、とか…一見小学生のままごとのようなやり取りは女子大生でもサラリーマンでも中年でもいつまでたっても見受けられる。或いはそれが人間なのかもしれない。

ととさんには「おそらくmetroさんの思ってらっしゃる方が,現実に近いのでしょう.」と言っていただいたが、しかし小生の発言もまた現実からは遠ざかっているかもしれない。

ある日、某議員先生(と言っても新進気鋭の若手だが)と会食する機会があった。(これについては山ほどネタがあるので後日シリーズで文章化したいと思う。)どういう流れだったかは忘れたが、確か互いに生い立ちを語っていて、小生がその会食の何ヶ月か前に母・妹と家を出て父親と縁を切ったことを話した。
あ、そうそう、話はそれるが関連する話題なので一つ書いておく。
「桜上水から○○市に引っ越したんですよ」と言うと、まず8割9割は下記のような返答をする。

「へぇ、一人暮らし始めたんだ」
 いや、違うと言うと、今度は必ずこう言う。
「それじゃ、念願の一軒家ですか」
 それも違う。さすがにそれ以上はあまり突っ込まれないのでこちらも敢えてその先は自分から言ったりはしないのだが、つまり世間の人々の思考回路は、
「世田谷という高級住宅地から郊外の市へ引っ越したということは、普通グレードが下がることだ。しかし、ハタチ前後の息子を持つ家庭がグレードを下げる引越しなんぞするはずがない。ということは、一家はそのままで息子さんが郊外で一人暮らしを始めて家賃の安いアパートに住んでるか、マイホームを購入して更なるリッチな暮らしをしているかのどちらかだ」
という発想しかないのだ。まぁそりゃそうかもしれない。まさか月15万の所から半額の7万5千円の所に、人数はたった一人減っただけで引っ越したとは予想だにしないだろう。

さて本題に戻るが、そうして小生は身の上を話し、まだ新生活を始めて半年も経っていない頃だったので散々と「アル中」「DV」「不倫」「会社の金横領」「借金」「実家の馬鹿両親」……元父親の悪口を余すところなく吐露したのだが、どうも議員先生にはそれが納得いかなかったらしい。

実は、その議員先生は小生と同い年、大学に入ろうかどうかという19歳という年齢にして父親を病気で失っているのだ。
議員氏は「離婚はしても自分の生みの親なんだから、いつかは許してあげなければいけない」と言った。それはもっともな発言だと思う。小生自身が自分の身の上を「こんな辛い思いをした」と悲劇のヒーロー面、被害者面をするのが大嫌いなので、普段は全く意識していないが、それでもやはり母の耐えてきた苦難の何十年かを知っているし自分自身も進路の制約を余儀なくされたり精神的にやられたりしたので、今現在、やはりどう考え方を変えても許すことは決してできない。考えることすら嫌なくらい毛嫌いしている。未だに月に一度くらい夢に出てきて大変気分が悪いのだが…忘れたい。
しかし、ここで「自分達の意志ではなく、病気によって父との別れを余儀なくされた」という立場の人の境遇を考えてみた。そうすると、初対面なのに人の事情も知らずに「父を許してやれ」と言ったこの議員氏の発言にはとてつもなく理解できるような気がした。そりゃそうだ。自分は勝手に引き裂かれてもう二度と会えないのだ。しかし離別しただけなら会おうと思えばいつでも会えるんだし、いくらでも関係改善の余地はある。何を贅沢言ってるんだ。そう言いたかったのだろう。とても心に深く浸みる。
だが、やはり本質的には違うのだ。そうではない。無礼を覚悟で言わせてもらう。そちらは楽しい思い出、いつ思い返しても涙が溢れる思い出としての父親像を持っているじゃないか。それに比べたら、こっちは不甲斐ない自分に腹が立ってコンクリの壁を思いっきり何度も殴って骨を痛めたり、お世話にならなくていい筈の東京高等裁判所まで朝っぱらから出かけたりしてるのだ。楽しい思い出があるそちらの方がよっぽどうらやましいのだ。
おそらく、互いに完全な和解はないだろう。客観的には痛いほどよく気持ちがわかる。しかし自分の境遇を経てそちらの方を覗いた時、そこに同意はない。

一般的に家庭内のゴタゴタを経験した子どもが大人になって自分も世帯を持ったとき、どうしても同じ過ちをしてしまうそうだ。虐待を受けてきたから誰よりもその辛さ、悲惨さを知っているはずなのに、同じ事を自分の愛する子どもにしてしまう大人のように。
故に、一般的に家庭内のゴタゴタを経験した子どもは、よその幸せな家庭をうらやみ、ねたみ、ひがむらしい。
生憎小生は「一般的」な思考回路を備えていないので、そのように感じたことは一度もない。嫌な家族と一緒に生活するくらいなら、世帯主のいない貧乏暮らしで月5万家に入れていようと、何ら後ろめたさも辛さも感じない。

だから、思う。佐々木氏よ、子どもを大切にしてやれ、と。それは新しく生まれてくる子だけでなく、前妻との子2人も同じくらいに。

結婚し、子どもを産んで家庭を築くということはそういう覚悟のいることだ。そんな当たり前のことが当たり前ではなくなってきた今の社会、そんな大人が増えてしまった事の方が少子化よりもよっぽど深刻な問題だと思う。

ちょっと内面を書きすぎたかな…。


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コメント 1

とと

TBありがとうございます.

>おそらく、互いに完全な和解はないだろう。客観的には痛いほどよく気持ちがわかる。しかし自分の境遇を経てそちらの方を覗いた時、そこに同意はない
↑すごくよくわかります.あたしはmetroさんの倍長く生きてますけど(笑),『わかるけど,共感はしない』ということは度々あります.でもそれが普通だろうと思うし,相手といつも同じ気持ちになれる人なんていないと思う.ということは,あたしの気持ちを完全に理解してくれる人もいないわけで,そう思っていると多少のずれは『まっ,いいか』でスルーできます.
でも,そうは言っても,ごくまれに相手の言うことにどこまでも反対してしまうこともあったりして・・・・.その後はいつも落ち込んでしまいます.あとどのくらい長生きすれば,もっと人間が練れるのかしら?
by とと (2005-05-30 20:21) 

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