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保守 [主張-時事]

「コンプライアンス社会につき思うこと…」という題で色々と述べようと思ったが、とりたてて主張しなければならないことは特にない気がしてきた…
昨今騒がれているコンプライアンスの推進。必要か?そんなことより優先すべき事柄は山ほどあるわけで、たまたま悪いことをしている性根の腐りきった人々が連日露になっているからその対策の一環として騒いでいるだけのことであって、本当にコンプライアンスを強調し推し進めていくことは危険だ。
ルールなんて所詮面倒だから一つにまとめようと取り決めたものであり、時代の流れとともに絶えず変化していくものだ。朝令暮改は当然のこととしてある。
大切なのは、ルールをより洗練されたものにし人々をその枠にしばりつけていこうということではなくて、人々自身を人格的に淘汰していくことだろう。そこがわかっていない。
「法律さえきちんと守っていれば、何をしてもいい。」ということではない。「法で決められてなければ、悪いことのような気がするけどやってしまう」というのは言語道断だ。自己の内に行動基準、律を内在させなければならない。こんなことは敢えて主張すべきことではなく、当然のことだと思っていた。
世の中、ルールを遵守することよりも優先すべきことは山ほどある。
最近の事例からピックアップすると、例えば東武線の踏切事故。あれは作業員1名を処分し社内規定を変えて遵守させることだけでは解決にならない。
自動の踏切では、余裕を持って安全第一でやっているから、すぐ閉まるし、なかなか上がらない。それはそれでいい。それでも、何故21世紀のこの時代にまだ手動式踏切が残っているかというと、ケースバイケースで対応した方が好ましいこともあるからだ。
人々のイライラをなくすため、ギリギリの所で綱渡りをする。2名死なせた責任は多大だが、しかしそれまでの作業員達の労苦に対しては、ねぎらいの言葉をかけるべきだ。いや、「ねぎらい」なんて上から物を言う態度ではなく、感謝の意を表明しなければならない筈だ。
自己の保身を最優先で考えれば、どれだけ人々が空かない踏み切りにイライラしてようと、無視してマニュアル通りに踏み切りを作動させていればいい。しかし、それはロボットの仕事だ。正直に言うと、東武の現場の人達には、竹ノ塚には、まだ人情が残っているんだなぁと、不謹慎ながら考えてしまった。
「ルールがおかしいならそのルールを変えれば良い」と反論されるかもしれない。しかしルール絶対の現場であるからこそ、悪しきルールが生まれるのだ、と言いたい。「何をしていい」「何をしてはいけない」など、本来明文化するものではなく、各々が毎日の経験と先達からの教育により自分で習得していくものだ。
そして、ルールは臨機応変に対応できないという最大の欠点を持っている。全てはその場、その状況、その環境故に起こることなのに、精神科医・心理学者あたりがのこのこと出てきて机上の視点からパターン化し分析しているのは、おかしいと思う。あくまで「類似した傾向を持つ」というだけだろう。
金持ちの人の金庫から金を盗んで夜な夜な貧乏人のポストに撒いてたという話を「盗みはいけません」と一概にくくることはできない。「人情としては間違ってないと思う」「いや、貧乏人は自分で稼ぐ努力をしなきゃいけない」等々、様々な議論があっていい。そして、その議論を通じて、その場に存在する人一人ひとりによって、最終的にそのケースにおける正解が生まれていけばいい。そう思っている。
定番だが、法令遵守者に最も考えさせたい問題が一つある。
「法律で罪と認定されていなければ、あなたは人を殺しても良いと思いますか?」


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