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男鹿和雄展@都現代美術館 雑感 取り急ぎ [美術]

背景に徹した職人だ。背景ということを勉強させられた。

背景とは場面の切り取りとは異なるものなのだ。

ある一つの場面を切り取って描写した絵は、それは完成品であり、そこに
登場人物を送り込むと、まるで人も動物も全て時が止まってしまった社会で
一人だけ歩いているような疎外感・浮揚感がある。
タイムマシンで潜入したような、違和感。

でも、男鹿氏の背景画は、完璧なまでに背景だ。
だから、そこに登場人物を送り込むと、全く違和感なく、
登場人物が絵の中で動くことができる。
登場人物とはその作品のメイとかサツキとかいった人物に限らず、
自分もそこに入り込んで井戸を触ったりバス停の裏を覗いたりと
想像ができてしまうのだ。

そしてもう一つ感じたのは、明確に書き分けているということ。
大抵、作家の個性というかキャラクターというか、
悪い言い方をすると「演じ分けていても、キムタクはキムタク」というような
色が出てしまうものなのだが、男鹿氏の背景画はそれが少ない。

タッチも違うし、視点も違う。込める思いも、別人が書いているような、
でもやっぱり男鹿氏の背景画なのだ。

そして、「書き分け」は森の書き分けということも、注目したい。
一見同じように見える、①「ぽんぽこ」の森と、②「耳すま」の森と、③「トトロ」の森。
実際、距離的にも①多摩・八王子・町田、②聖蹟(連光寺、聖ヶ丘)、③町田・東村山・所沢
と三者はごくごく接近している。
でも、いずれの森も、(③の場合は時代の違いもあるのだが、)同じではない。
そこを、男鹿氏は明確に書き分けている。

どう書き分けているか…は言葉での説明が難しい。なんというか、見た時に
「あ、これは多摩の森だな」と直感で分かるのだ。
これが何故分かるかということはきっと、
小生がいずれの森も自分の足で歩いて見ているからなのだろうが。

でも、「おもひで」の山形の道も、「あ、これ山形だな」と分かった。
知っているからだな。ということは、まだまだ自分の中にパターンが少ない。
沖縄の海辺も知らないし、広島の市内雑観も知らないし。
もっともっと各地を歩きたいと改めて思った。
歩き、極めた時に初めて、次のステップに行けるのだろう。
次のステップとは、ここでは「もののけ」の森、「千と千尋」の建物、ということだ。

でも、やっぱり男鹿氏は背景ではない作品を描きたかったらしい。
これだけの才能があれば、当然のことだろう。
評価は分かれるかもしれないが、3部門に分かれたうちの3番目では、
男鹿氏のジブリ退社後に手がけた作品の数々が紹介されていた。

あまりにも数が多くて3、4つに分けてほしいほどだったが、
どれもプロフェッショナルだなぁ…と、そんなため息が漏れる作品の数々であった。

以上。

あとは愚痴なのでお読みいただかなくてもいいですが、あまりにも目に付いたので。

ところで……ここに来てる連中の9割は消費者だなと思った。意見を持てない連中。
何を見ても表層的な感想を言ってキャラクターグッズ買ってお茶して終わり。
入り口の行列。命を吹き込まれなかった言葉達が、高い天井の上までこだましていた。

(でも、その9割がいなかったら映画は作れなかったしこんな美術展もできなかった。
 絵を発表するために、作家は思いを伝えるために、トトロの折り紙コーナーを作る。)


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