わかる [雑記]
わかるというのは往々にして思い込みなのだと思う。
分かる。
判る。解る。
分ける。
別ける。
わかるというのは往々にして思い込みなのだと思う。(2回目)
「うちわ」という名前を知っている人は
それを「うちわ」と呼ぶだろうし、
その名を知らぬ者は
「扇ぐ物」と自分で名づけるか、
「紙」と「竹」と「涼しげな色」と「朝顔の絵」と「200円」とに
分解してみるか…
そう、分かるとは「分」「解」なんだろう。
これは何か。
分けて、理解する。
そして、それらを集束する。(集め、束ねる。)
それが、「カテゴライズ」というもの。
「分類」とか「分別」とか「判別」とか「判断」とか「理解」とか「読解」とか。
カテゴライズしたものは、カテゴライズしたことが分かるようにしなければならない。
だから、名前を付ける。
名前とはすなわち理解。
名前を知らなければ(或いは作れなければ)、理解はできない。
扇子と団扇の違い。
団扇と内輪の違い。
違い=境界=名前と名前の間の「差異」(あ、同じ事を言っている)
つまり、分解・分類・分別
分別と言えば、燃えるゴミと燃えないゴミ。
燃えないのか、燃やせないのか。
燃えるのか燃やすのか。
そこに、主体性があるかないか。
それが問題だ。
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