SSブログ

公教育 ~何のために学校に行くのか~ 後編 [主張-時事]

昨日の記事の続き。

まずはじめに…ここ数日の安倍首相や伊吹文科相の発言を聞いていて、一つ
気になることがある。それは、「正直者が馬鹿を見ないように…」というものだ。

規定通り倫理や家庭科を学んだ学生がなぜ「正直者」であって、
なぜ倫理や家庭科を学ぶことが「馬鹿を見る」ことになるのだろう。

むしろ、温情とかで倫理や家庭科を学ぶ機会が与えられないことの方が
かわいそうなことではないのか。

この発言の根底には、やはり「受験に関係ない科目を嫌々教わっている」
という無意識の前提があるのではないか。
だから、「正直者が馬鹿を見る」なんてフレーズが平然と口から出るのだ。

倫理も家庭科も、本来日本国民の最低限の教養として必要なものだから
高校に教科として取り入れられているのではないか。
そうでないとするなら、倫理を何故教えているのかということになる。
それともやはり、高校は大学受験の予備校という機能しか持っていないことを
日本国政府の見解として示しているのだろうか。

…さて、それも含めて本題。

3.
「倫理だって家庭科だってきちんと教えなければならないものだ」という議論も当然ある。
そんなことは当たり前なので敢えて取り上げる気もしない。
世界史は受験に関係ないって…歴史を学ばない人間がいくらいい大学に入って
偉そうにしたって、ただの知識オタクで使いっパシられるだけだ。

実際、この問題で抗議する親達は皆、そこに対しての怒りは殆んど口にしない。
それより、「わが子はきちんと卒業できるのか」「受験勉強で必死になってるときに
なんてことをしてくれた」ということばかりだ。
「ろくに食事もとらずに勉強してるんです!」と絶叫してたが、そんなのは当たり前だし、
だから何なんだ。親達の低能稚拙っぷりが連日取り上げられていて、嘔吐しそうだ。
むしろ生徒達の方が冷静にこの問題を分析しようとしている。

さて、ここまで「卒業できるできない」「受験勉強に支障が云々」ということばかりが
言われてくると、「じゃあ何のために学校に行ってるんだよ」ということになってくる。
実際、学校が嫌なら学校に行かないで自分で勉強すればいいじゃないか。
わずらわしい人間関係もないし、受験に必要ない科目は学ばなくていいし、
自分のペースで勉強して、東大でも何でも入ればいいじゃないか。
高校に行かなくても、大検でいいじゃないか。 それでも学校に行くのはなぜか。

というか、何のために高校は存在しているのかということになる。
今の状態では、進学校やそれなりの上位校はほぼ全て、
大学受験のことを考えたプログラムを組んで授業をしている。
文化祭などの学校行事を削ったり、部活をやめさせてまで
英語や数学の授業をやったりしている学校もたくさんある。

そんなに大学が素晴らしいのか。では実際、大学ではどんな得がたき経験が得られるのか。

先日、吉村作治氏が新聞のコラムにこんなことを書いていた。
「最近の大学は、教授に厳しく学生にやさしいシステムになった」と。
学生の権利が認められ、手厚く保護されているのだそうだ。
例えば作治氏は、授業に30分以上遅れてくる生徒は迷惑だから、
教室に鍵をかけていたのだそうだ。しかし今は、
それは学生の学ぶ権利を侵害しているとして、禁止された。

なんじゃそりゃ。

30分以上も遅刻して教室に堂々と入る学生なんかが本気で学びたいと思ってるはずはないし、
そんな連中の権利など認めてはならないだろう。

また、授業中にトイレに行くのも、「権利を保護する」ためさえぎってはいけないそうだ。
トイレから戻るときタバコを一服して帰ってくるのも黙認だ。

それでいて教授はむやみやたらと休講してはならないと言われ、
自由に学会や出張のスケジュールを組めなくなった。

だから大学を辞めたという作治氏の主張、また「教授は授業より研究を優先する」という
作治氏の考え方には同意できないが、氏をそこまで失望させるほど今の学生の
態度が悪いというのも一つの事実だ。そしてそれが三流大学ではなく早稲田大学なのだから、
今の日本の大学全体の水準を示しているとも言えよう。

確かに、今の学生はひどい。でも、そんな彼らも3年生の秋になると、
今までの態度を一変させ、髪を切ってリクルートスーツに身を包み、
言葉遣いが丁寧になる。

突然学ぶ姿勢を改めたわけではない。就職活動だ。

つまり彼らは、大学4年間で何をしているかといったら、
最初の一二年はサークルや飲みやコンパに精を出し、
後半は就職活動に全力投球するのだ。

ということは、大学はつまるところ、
合コンや出会いの場を用意する「結婚相談所」であり、
就職を支援する「就職予備校」なのだ。 …と言っても決して的外れではないだろう。

そんな結婚相談所かつハローワーク、もとい、就職予備校に入るために、
高校は必死で受験勉強をさせているわけだ。

つまり、就職予備校の予備校が高校だということになる。
ということは、その高校に受験して入る中学生は、
予備校の予備校の予備校たる中学校に通っていることになる。
じゃあ小学校や幼稚園のお受験は………

ここまで言うと飛躍しているようにお感じかもしれないが、
勉強が目的かのように騒ぎ立てる保護者や生徒の言い分をまとめると、こういうことになるのだ。

勉強といったって、人生勉強や社会経験、本当の学問とはかけはなれた、
テストで点数をとるためのテクニックと文字列暗記の水準でしかない、
勉強とは呼べない勉強だ。

こんなことが目的なら、なぜ学校に行くのか。
とりわけ、公立の学校に行く理由を問うてみたい。
学校に行けばいじめに遭うかもしれないし、楽しい行事がいっぱい待っているかもしれないし、
受験に関係ない教科の宿題が出るかもしれない。
それでもお金がないから私学には行けないのか。
じゃあバウチャー(=利用券)が与えられたら私学に行くのか。

こうなってくると、もはや公教育の目的は受験さえできないorしたくない
落ちこぼれをせめて社会に出て困らない程度の最低限の教養とマナーを習得させる
治安維持の収容所に成り下がってしまう。

一応中学までが義務教育だが、今の時代中卒では殆んど何もできないから、
救済の公立校を含め、高校までを包含して「公教育」を考えてみたい。

「危ないから」「親からすぐクレームが来るから」といって公園のシーソーを
撤去する時代。管理管理、保護保護で核シェルターを作っていくのか。
行き着く先は、多木浩二氏の指摘する「学校の監獄化」「都市の監獄化」だ。
牢屋の中ほど治安の良い所はない。そこに子どもをぶち込んで、どう成長させるのか。

公教育の意味、これを読まれた方にも是非問うてみたい。
短くても長くても大歓迎。コメント欄にお寄せください。


nice!(13)  コメント(23)  トラックバック(2) 
共通テーマ:学校

nice! 13

コメント 23

MANTA

同意します。高校は受験勉強以外にも、いろんなことを学ぶ場所。それがいやなら予備校に行って大検うければいいのです。しかし、いろんな人の意見を見ていると、「高校が予備校的になっているのであれば、いっそ高校を予備校化してしまえばいいじゃないか」という主張もあり。つまりは高校とか、きっと大学でも一般教養的教育は不要だ、というわけです。
一般教養は考える力を養う基礎体力を作ります(たぶん。哲学の類とか歴史の勉強とか特に)。私は必要だと思うのです。体は大きかったが壁画などは残さなかったネアンデルタール人は絶滅し、体は小さかったが壁画や文化を残したクロマニヨン人は我々の祖先なのです。ま、そりゃいいすぎかな。
by MANTA (2006-11-01 06:51) 

引き続きコメントお許しください。
予備校の方が、今の学校よりちゃんと「受験勉強以外」の大事なことを教えてくれている気がします。私は年をとってから、他学部受験のため、27~30歳の時に予備校に通っていました。学生時代に通っていたときもそうでしたが、学校よりよっぽどちゃんと「教育」していると思いました。同和教育、平和教育・・・今の学校からは消えてなくなりそうな勢いです(><)

その上で、公教育の意味とは。
実際に働いていて、私立よりさらに多様な生徒たちが集まって、多様であること=違いを認め合うことを知る、学ぶ場だと私は思っています。

私学より安い学費だけれど、私学以上に力を入れている公立もありますし、その真逆な私立だってあります(苦笑)。
私は授業で、教科書で、受験に必要なことも、必要でないことも同時に指導したいといつも考えて臨んでいますし、大学入試問題のほうが、教科書なんかよりよっぽど世の中や生きることについて大事なことが詰まっています。
科目の特性もあると思いますが、すくなくとも、私は大学受験のための勉強がまったくの無意味だとは思っていませんし、受験は本当に生徒たちを成長させてくれます。

無意味にするか否かは教える側と学ぶ側如何だと考えます。
by (2006-11-01 18:39) 

aki-honami

予備校が無い地方の高校は、ほんとに苦しい現実に直面しているという事を、認識してほしいです。
未履修があった高校の父兄です。
決して高くない地方の国公立大に合格するためには、今の指導要領ではかなり無理があるようです。うちの子は部活で全国大会に出場するところまで頑張って、推薦も無く自力でそこそこの国立大が志望校です。
毎日、部活と勉強で、遊ぶ事は皆無でした。
寝ないで頑張ってます。
この子たちの努力を踏みにじるような事だけはして欲しくないのです。
センター試験を直前にして今月末から未履修の科目の授業が始まります。
どうして欲しいとか、難しい事はわかりませんし、語ることも出来ませんが、
第一に当事者である生徒たちの事を考えて欲しいです。
by aki-honami (2006-11-01 21:41) 

hm

 学ぶということはどういうことか。
 そして,学校で学ぶということは…
 一口には言えませんが,縛り付けられる監獄なんかじゃ,子どもを入れる価値も,自分が入る価値もありませんね。

 私たちが自己実現できるように,育ててくれる場所,でなくては…
by hm (2006-11-01 23:26) 

みらの

的外れなことを申し上げてたらごめんなさい。私は、公教育は、全ての子どもが社会を広げていくことを目的としているのではないかと思うんです。幼い頃は家庭の中だけの社会、それが幼稚園、小学校と、地域を含む社会となり、中学校ではもう少し広い地域の社会になる。そして高校では地域をとび出した社会。その後は世界を視野に入れた社会。子どもの世界が無理なく広がっていくように、擬似社会をつくっているんじゃないかと思うんです。つまり、社会を広げるということは、人間関係を広めたり、知識を深めたり、努力することを覚えたりすることが基本となってくるのではないかと思うのです。
by みらの (2006-11-02 00:47) 

orpha

http://ef32dweg.info
by orpha (2006-11-03 06:02) 

えいこう

理想と現実、つまりは人間の能力の限界というものをつくづく感じます。
人間が思っているほど、人間とはすぐれた動物ではないと言うことですね。
憤りを通り越して、諦めは悲しい。この頃は、そう思いますが。
by えいこう (2006-11-03 22:49) 

MANTA

本問題はなぜ発覚したのか、ちょっと調べてみました。ふーむ。
TBさせていただきましたのでよろしければお読みください。
by MANTA (2006-11-05 14:02) 

m_kikuchi

学生時代は、教室では温室のような状態で育ち、一歩社会にでると職場では、長時間過密労働、低賃金、運が悪いとぼろ切れの用に使い捨てにされる過酷な社会が待ち受けている。これではニーとが増えるはずですね。ギャップが大きすぎる様です。
by m_kikuchi (2006-11-07 20:53) 

俺

こんばんは。貴重なコメントの数々、深謝いたします。
また、お返事が遅くなり申し訳ありません。
以下、コメント載せていきます。かつて、まとめて書いて送信したらアップされず、前の画面に戻ったら消えてる…というソネブロお得意のトラブルが発生したので、それを教訓に、前回と今回、メモ帳に書き溜めてから一個一個コピペし送ってます。一個一個のコメントの投稿時間の間が短いですが、そんなに短時間で適当に書いたわけではありませんので、ご理解ください。
by (2006-11-08 01:27) 

俺

>MANTA 樣
本当にその通りだと思います。一般教養の必要性は中身のスカスカな大人が一番痛感しているはずなのですが…その需要はやはり社会人になってからの夜学や大学院・ロースクール通いにも象徴されていると思うのです。というか、ただ知識を覚えるだけなら電子辞書を置いとけばいいわけで、自分の能を活性化させ、人生や社会や人間、自分を考えていく力を持たなければならないと思うのです。
人格を伴わない学力は学力ではない。ホリエモンと宮内の低俗な裁判でのやり取りを見るにつけ、強くそう感じています。(前にも書きましたっけか)
by (2006-11-08 01:28) 

俺

>松matsu 樣
元々予備校にも問題意識を持った先生方は多くいたと思います。今はわかりませんが…

実は、小生は小・中・高・大とずっと公立の学校に通ってきて、特に小・中は地元の学校でしたから、「偶然その地域に生まれ育った同世代の人間」というコミュニティの中で義務教育を受けてきました。ある程度地域による特徴=端的に言うと親の所得=はあるものの、実に多種多様な子ども達が集まって、雑多なメンバーが一つの教室で同じ授業を受けるということ、これは本当に重要なことだと思います。
「多様であること=違いを認め合うことを知る、学ぶ場」というのは全くもって同感です。実際自分の体験としても、貴重だったと思います。「勉強のできない子に合わせるとできる子は進めない」と言われ、今では公立校でも習熟度別の授業を行っているそうですが、それは違うと思うのです。
議論の為敢えて謙遜は省いて話しますと、中学時代、小生は成績で言うと5段階で平均4.8くらいでした。だから正直に言うと授業が退屈だったり早く次に行ってくれと思うことがありました。隣の席の勉強嫌いなやつが年中話しかけてきて授業を聞けないこともありました。
でも、それが大事だと思うのです。
うるさい子に「邪魔するな」と注意すること。分からない子に「ここはこうだよ」と教えること。自分と人との違い、差を知ること。自分が何でもできると傲慢にならず、自分にもできないことを知ること。1から5まで様々な成績の生徒がごった煮状態で集まった一つの空間=教室を演出していくこと。まさに、社会を知ることだと思うのです。

その上で、受験勉強に臨んでいくこと。これが「ゆとり教育」のあるべき姿なのではないかと思います。いまさらゆとり教育再燃の議論はされないでしょうし、現状ではゆとり教育は完全に失敗したざまを見せつけていますが、この反動でまた受験戦争の時代に戻ってしまうのではないかと危惧しています。同時に、落ちこぼれが落ちこぼれの吹き溜まりとして社会から取り残されていくことも懸念しています。
by (2006-11-08 01:28) 

俺

>ほなみ 樣
そうですよね。何より今の時期に騒ぎ立てることは本当に現場の生徒達にとっては苦痛の連続だと思います。
東京など都会に比べると地方の場合、公立の進学校が塾の分まで役割を担うというのは確かに理解できます。そこまでするのかというくらい補修や受験対策を行っているという現状もあります。地方は地方としての観点から議論がなされる必要があるように感じます。
by (2006-11-08 01:29) 

俺

>hm 樣
「自己実現」、いい言葉ですよね。学んで進学することも将来を開拓していく上でとても大切なことだし、かといってそれ一辺倒ではなく多様な道が中学・高校のうちから模索されるべきであるし、「予備」の学校ではなくて「可能性を拡げていく」ことが大事だと思います。
と言ったものの、現実に目をやると国家の運営としては「最低限の教養と学力とリタラシーと法令順守と」を教えていくことも同時に必要で、文部省としてはそっちの部分の方が当然大事で、「何のために通うのか」という議論は意図的に封じ込められてきた感があります。
by (2006-11-08 01:29) 

俺

>みらの 樣
なるほど。「社会を広げていくこと」。そうですね。それは重要な教育の作用だと思います。自己実現と表裏一体のものとして、自分の住んでいる社会を構築し、再構成し、拡張してくこと。それを学ぶ前段階としての学校の教室は、やはり社会を学ぶ場ですよね。
その中で発生するいじめという問題はもはや20年以上にわたって議論をされてきて、未だなくなることはなくて…
「解決」というのも確かに大事なのですが、だからと言っていたずらに生徒間の関わりを閉ざしたり「チェックシート」なんかで監視したり、変な緊張線を張ったまま勉強していくことが果たして本当に生徒にとって有意義なものかといえば、疑問です。いじめと犯罪とは違う部分
があって、なぜ起きるのか、どうして起こすのか、加担するのか、傍観するのか、ターゲットになるのか、それぞれの立場から子ども達が考えていくことが大事だと思います。それすらも教材に学んでいかなければ、いくら歳を重ねてもいじめをし続けorされ続けてしまうのではないかと思います。
by (2006-11-08 01:30) 

俺

>えいこう 樣
そうですね。人間が思ってるほど人間はすぐれた動物ではない。とすると、その人間の手の延長線上に作られた道具というもの、機械というものの限界も同時に感じます。
学校はどれだけ防犯ブザーを持たせてもセキュリティを強化しても、学校内部でいじめが起きてしまえば防ぎようがない…「防『犯』」の観点から見るとおそらくいじめ・自殺問題についての学校側の認識はその程度のものだと思います。
by (2006-11-08 01:30) 

俺

>あすなろう 樣
子どもへの過剰な配慮や、「教育」と謳った温室栽培は社会への適応力を低下させていくだけだと思います。
最近、公園からシーソーやジャングルジムなどの遊具が撤去されているのをご存知でしょうか。「手をはさんだ」「ケガをした」という保護者からのクレームで、どんどん危険とみなされた遊具がなくなっているそうです。これほど馬鹿な話はないと思うのですが、いくら正論を通そうとしたところで、親からのクレームが自分の評定につながると考える役人は、クレームがくるものは全部排除しようという論理で動くそうです。
シーソーで転んでケガをするくらい、幼い子なら誰でも経験するはずですし、そこでケガをしたという経験によって危機回避を覚え、見も心も強靭になっていくわけで、たった一、二回のケガを恐れていてひ弱な子どもになってしまったらどうするのか、ということは誰も考えていないのだと思います。これは由々しき事態です。
ニート、フリーターの問題はここまでさかのぼって考えなければ根本的な解決を見ることはないと思います。
by (2006-11-08 01:30) 

俺

皆様、ありがとうございました。

引き続きコメントお待ちしております。この問題はもっともっと多くのご意見を伺ってみたいと思います。
by (2006-11-08 01:31) 

MANTA

お返事ありがとうございます。いろいろ書かせて頂いていると、結局は自分はどんな教育を受けて、なにを後の世代に残せるかをぼんやり考えてしまいますね。
by MANTA (2006-11-08 07:22) 

俺

そうですね。自分がどう生きるかということ、そして、次の世代に何を残せるかということ。自分の知らない未来を歩んでいく後輩とどんな対話ができるか。それを考えるだけでも、考えは尽きないですよね。自殺しようなんて忘れてしまうはず。どう生きるかということですね。
by (2006-11-14 23:52) 

NO NAME

就職氷河期、それも超就職氷河期に私たちは直面しています

この、<a href="http://www.pwblog.com/user/xru01/syusyoku/">就職活動</a>は並大抵の努力では乗り切ることが困難と言われています。

米国、アメリカのサブプライムを皮切りに引き起こされた今回の不況、それこそ数年間にわたって、世界経済にインパクトを与え続けるでしょう。

この時期の、今のあなたが直面している就職活動というイベントは、あなたの人生、就職人生の大きなウエイトを占めることとなります。

昨年までの就職活動状況とは180度転換した就職氷河期、絶対に後悔しないように全力で戦いましょう。
by NO NAME (2009-01-19 13:56) 

NO NAME

就職氷河期、それも超就職氷河期と言われる時代に突入しようとしています。

この、<a href="http://www.pwblog.com/user/xru01/syusyoku/">就職氷河期</a>は並大抵の努力では乗り切ることが困難と言われています。

世界同時不況とも言われている今回の不況、それこそ数年間にわたって、世界経済にインパクトを与え続けるでしょう。

この時期の、今のあなたが直面している就職活動というイベントは、あなたの人生、就職人生の大きなウエイトを占めることとなります。

就職活動は、技術と知識で乗り切ることが出来ます。就職氷河期、絶対に後悔しないように全力で戦いましょう。
by NO NAME (2009-01-25 23:54) 

NO NAME

大変ですよね、<a href="http://www.pwblog.com/user/xru01/syusyoku/">就職活動</a>

就職氷河期、それも超就職氷河期と言われる時代に突入しようとしています。

この、就職氷河期は並大抵の努力では乗り切ることが困難と言われています。

世界同時不況とも言われている今回の不況、それこそ数年間にわたって、世界経済にインパクトを与え続けるでしょう。

この時期の、今のあなたが直面している就職活動というイベントは、あなたの人生、就職人生の大きなウエイトを占めることとなります。

就職活動は、技術と知識で乗り切ることが出来ます。就職氷河期、絶対に後悔しないように全力で戦いましょう。
by NO NAME (2009-01-27 18:52) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。