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■『気楽に殺ろうよ』/藤子・F・不二雄 [書評]


★気楽に殺ろうよ
 ~藤子・F・不二雄 [異色短編集] 2~
 藤子・F・不二雄  小学館
 1995/08・文庫版の初版第一刷発行
 (初出はビッグコミック1972年5月10日号など)

本書が問いかけるテーマは3つ。いや、もっとあるが、大きなテーマはこの3つ。
・絶対、永久に不変なものは存在するか
・論理的整合性、科学的根拠が判断基準の全てか
・信じれば人も殺せる。それでいいのか

だと思う。
一番有名な例えで使われるものとしてガリレオの「それでも地球は回る」と言ったとか言わないとかだが、つまり、ある時点ではAとされていてBなんて答えを言ったらテストで×をつけられ人々の笑いものになるかもしれないが、しかしそれは百年後、いや十年後、いや明後日にはBが正解になっているかもしれない。

確かに、「人間の二大欲、食欲と性欲。食欲は自分が生きたいと思う故に動物を殺したり植物を伐採する極めて利己的な行為であるのに対し、性欲は種の保存のための行為を欲すものであり、人類全体に貢献する極めて意味のある行為。だとすれば、性欲を恥ずかしがって隠す必要がどこにあるか。逆に、食欲なんてものは恥ずかしいことであり、隠さなければならない」なんてもっともらしく学者が喋れば、時代が時代なら全員が信じ込んだかもしれない。むしろ今でもじっくり読み返せば読み返すほど、「そうかもしれない」と思えてしまう。

この頭でっかちの人間、机上論の人間に対する揶揄は、30年経った今でも実は通用するのかもしれない。

そして、不変性への懐疑。信じられないかもしれないが今からほんの百年前まで我々は太陽暦を使わず太陰暦を使っていたわけだし、今でもどこかの国に行けば頑なにメートルを拒否しインチで計っているところもあるし、きっと高度成長期の頃はもう日本に二度と戦争なんて起こらないと思っていただろうし、このままずっとずっと右肩上がりに進んでいけると思っていたし、古く悪しき農村社会の紐帯は崩壊し都会的なアメリカナイズされた文化が進んでいて正しいと信じていたし、どれだけ工場で排気を出そうと水銀を流そうと木を切り倒そうと、地球環境が悪化し資源が底をつくなんて考えもしなかっただろう。ついこの前まで「アスベスト?そんなあるんだかないんだか分からない病気、対策なんてしなくていい」なんて思っていたのに、今や壁面にちょっと使われていただけで過敏に反応し小学校が休校になって除去作業をしたりしている。一昔前まで「ホットドッグ片手に食べ歩き」なんてことをする人間は教養がなく品がなく恥さらしだと思われていたが、今や立ち食い、歩き食いは当たり前になっていて、逆に歩きタバコなんかが目を付けられたりしている。

そして、我々がいかに他者から影響を受けて自己の行為を規定されていっているかということ。それは、心にも及ぶ。
当たり前だとされているもの、科学でさえ、それは集団幻想に過ぎないのではないだろうか。たまたま今までに一度も失敗例がないだけで、成功の可能性を100%にしてしまっていいのだろうか。比較的幼少の頃から、小生はこうしたことをいつも頭の中で考えていた。それはまた、ドラえもんの作者も同様に考えていたということだろう。

そしてまた、ここには重大なメッセージが物語の最後に込められている。
信じれば、人も殺せる。
確かにそうかもしれない。「何故人を殺してはいけないのですか?」と聞かれて、まともに答えられる人がいないということにも直結する。
倫理?罰が当たる?―――――そんなの幻想だろう。
命の尊さ?―――――だったら平然と殺してるゴキブリや蚊や鳥インフルエンザにかかった鶏達は何なんだ?
何のために?―――――そうすれば恨みが晴れる気がするからだよ。
自分がされていやなことは自分もしちゃいけない?―――――俺は別に殺されてもいい。だから、殺す。
法律で禁止されているから?―――――だったら法律で「人を殺しちゃいけない」と書かれてなかったら殺してもいいのか。それ以前に、法律がどうであろうと、警察に捕まらなければいいんだろ。

考えて考えて考えて、思い込んで思い込んで思い込んでいけば、人も殺せる。

だから、どっかの化学オタクの女は母親にタリウムを飲ませたし、
小林薫は少女を殺して性欲を果たした。

殺す理由?そこに理由などない。

宮崎勤という凶悪犯は、法廷で怒り泣く遺族、裁判官や検察に対してこう言い放った。
「ボクは子どもを何人も殺したよ。食べたよ。
でもお前らは何人よってたかっても、ボク一人しか殺せない」

では小生は人を殺したいと思ったとして、或いは思わずとも「なんとなく」殺ってみたいという気持ちになったとして、実行に移すだろうか。

多分半分は恐怖感、半分は漠然とした信念が、それを止めるだろう。

結局、深いところにある信念がそうさせる。或いはさせんとする。
それは、理屈をつけて説明できるものじゃない。論理的整合性も何もない、ただふっと頭に浮かんだだけ、なんとなくいつからかは知らないがそうじゃないかと信じているだけのことだ。
だから、こう答えるだろう。
「なぜ殺しちゃいけないかって?なんでも。とにかくだめなんだよ」

だめなのかもしれない。

気楽に殺ろうよ

気楽に殺ろうよ

  • 作者: 藤子・F・不二雄
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1995/07
  • メディア: 文庫


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コメント 8

katu

法律で「人殺しがいけないから」とあるから「人殺しはいけない」とする発想は、護憲運動家の「憲法で戦争放棄」だから「戦争はいけないんだ」とする発想と根が同じですよね。
 法律とは常識(共通感覚)の成文化であるはずなのに、なぜか、それが逆転して、法律があるからばれたら罪に問われる、しかし、ばれなければ罪に問われないのだから、何をやってもいい、従がって護憲運動家の大半は非常識な方々です。
 こうなったのも、戦後教育が、常識を無視することがいいことだとしたためでしょう。
by katu (2005-11-20 04:48) 

泉河潤一

私は、ごく単純にその人(子)を愛し、育ててきた人が悲しむから。
その子自身の命はかけがえのないものだから、というところでしょうか。
by 泉河潤一 (2005-11-20 09:56) 

mana

こんにちは。
藤子・F・不二雄さんは、「ドラえもん」というイメージだったので、本の題名にちょっと驚きました。
「信じれば、人も殺せる」某国の爆弾テロがそうでしょうね。
信仰している宗教のためなら、恐怖感より宗教への信仰心が打ち勝つのでしょうね。宗教の宗派は違っていても、同じ民族なのに・・・自分には理解出来ません。
また、ずれてしまったかな?申し訳ありません。
by mana (2005-11-20 13:24) 

俺

皆さま、コメントありがとうございます。
このテーマは実は結構深く考えようと思えば考えられたりして、皆さんのご意見・信念、『気楽に殺ろうよ』を読んでのご感想などたくさんいただけたら幸いです。

>katu さん
憲法の問題はまた難しいですね。
正直なところ小生は憲法については良くわかっていないところがあって、良く分かっていないゆえに某ミヤダイ助教授が偉そうに…もとい、頑として断言されていたのを「多分そうなんだろうなぁ」と鵜呑みにしております。
憲法とはただの法律ではなく、憲法は国民から国家への約束なんだそうです。法律や条令で上から下に行くのと反対で、これは国民が国家に対して義務を負わせるのだそうで、それを変えてしまおうということになるとまた難しい問題なんだそうです。
話は違いますが、最近の世論はよく理解できない部分があります。「消費税の増税はやむをえない」とか、「55%が有料レジ袋に賛成」とか…自分達の負担になることなら正直に反対しておけばいいのに、何を深読みしてるんだか、気を遣ってるんだか、単なる右傾化なのか、理解に苦しむところがあります。

>ファーザー さん
おそらく、そういうことなんだと思います。そうですよね。
小生の「漠然と、うまく説明できないんだけど、とにかく殺してはいけないんだ」という思いは、きっと「その人を愛する人、育てた人が悲しむから」ということと通じる気がします。
人は一人では生きられない…かどうかは分かりませんが、少なからずこの国に生きて真っ当な人生を歩もうとするなら、何千何万の人と出会い、かかわり、迷惑をかけ、恩を売り、日々生きているわけで、相手に自分の記憶を与えているわけですから、その人たちを悲しませないためにも、死んではならないと思います。

>mana さん
小生も確かに、藤子F不二雄がこんな作品も残していたのかと驚きました。「気楽に殺ろうよ」以外にも幾つかの短編があり、どれもアイロニーな感じに人間社会の根幹を突く疑問を呈していて、面白いです。
「あいつは大量核兵器を持って、俺を殺そうとする。だから、殺した。自己防衛のためだ、仕方ない」…思い込めば、いくらでもできるんでしょうね。いや、思い込みというよりこじつけでしょうね。きっと、そういうことなんでしょう。
先日某都知事が渡米した際、すごい発言をしていました。あまり報道されていなかったのでご存知の方は少ないと思いますが…
「今この状態でアメリカが中国と戦争をしたら、間違いなくアメリカは負ける。なぜなら、戦争はやはり人口量が勝負。中国は巨大な人口を抱えているゆえ、(下等な民族だから)生命倫理がない。つまり、民間人がいくら死んでも構わないという感覚で、どんどん攻めるだろう。それに対してアメリカはヘタな命の尊厳みたいなことを言ってるから、間違いなく負ける。だから、中国は脅威であり、しかし軍事的には抑え込むことが難しいから、経済的に封じ込めていかなければならない」…およそこんな感じでした。
正直、鳥肌が立ちました。
by (2005-11-21 01:12) 

えいこう

絶対、永久に不変なもの。思想、哲学的に考えると、存在するのかも知れません。倫理的な面だったり。
例えば人を殺してはいけないなど、その最たるものかも知れません。
しかし一方で、なぜ殺してはいけないのか。突き詰めていくと、答えが見つからないのも事実ですね。
科学的根拠に頼り過ぎるのも、それでは今後、科学の進歩はないのか。そう思ってしまいます。いずれ科学が発展した時に、現在とは違った答えが、事実として証明されるかも知れません。それこそ、地動説が天動説に変わったように。
論点が見えにくいかも知れません。上手く言葉に出来なくて、すみません。
by えいこう (2005-11-21 03:07) 

俺

コメントありがとうございます。
確かにそういう観点から考えると永久不変なものというのはあるのかもしれません。
時代を切り拓いていった人たちに共通しているのは、常に今の世の中を問い直すこと、常識を疑い当たり前を再考することだったこと、これも不変ですね。
by (2005-11-22 23:35) 

nurumayubiyori

答えが出ませんでした。
自問してみて、他人の立場になってモノを考えることはできても、
蚊の立場にはたてない、と自分でよく分かりました。
折を見て、読んでみたい本ですね。
by nurumayubiyori (2005-12-12 15:35) 

俺

そうですよね。やはり、人間は人間至上でしか考えられないし、それをするなというのは酷な話で、だとしたら命の尊厳って何だよというテーマが浮上するわけです。

堤義明という人はすごい人だったのだと思いますが、彼はおそらく飛行機の窓から見下ろして、ひらめいたのでしょう。
人間はなんと土地を使っていないのだろうか。川沿いと平地のほんのわずかな部分にしか家は建っていない。大部分、日本国内で4分の3とされる心理印部分は、一切手付かずのまま。
平地はもう埋まっている。だとしたら、森を開発しよう。首都・東京から一番近い森は、千葉か埼玉。千葉は土建のしがらみがある。じゃあ埼玉だ。

こうして彼はリゾート開発の先駆者として数々の功績を残し、同時に森林を破壊し宅地開発をしていったんじゃないかなぁと、昨日の帰りの飛行機の中で直感的に思いました。
by (2005-12-13 00:30) 

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