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ウルトラマンが3分以上地球にいられない理由 [主張-ひと]

先日身辺批判を行ったが、中には「辞めます宣言か?」と感じ取った方もいられるかと思う。
しかし、この点についてははっきりしておきたい。
先日の痛烈すぎるまでの身辺批判は、自己を喪失しないための「対角線上に置いた指標」であり、辞めるどころかむしろ「辞めないための」宣言文である。

どういうことかというと、小生は決して現状から一秒でも早く逃げ出したいと考えているわけではない。実際縁が切れたチームというのも存在するが、現在進行形の部分については、まだそう思うに至っていない。
むしろ、「ガキ連中」も「間抜けな20代」も「責任放棄の30代」も「早すぎる舵取りに完全に浮かれた40代も」、その一人ひとりは大変いい人たちばかりなのである。個人的に親しくさせていただいている方も大勢いるし、個人に攻撃の的を絞ろうとしたところで、具体的に攻撃する名目が見出せないのだ。
しかしながら、これこそが厄介なのである。
つまり、馴れ合いのコネクションというものだ。それは、円滑にプロジェクトを進めていく上では必要不可欠なのだが、ありすぎても困る。一人ひとりがいい人でも組織全体として眺めたときに不具合が生じていると、これはどうにかしなければならない。しかし、馴れ合いの気持ちを払拭できない限り、どうにかすることはできない。
人は慣れる。慣れるとはすなわち、鈍くなるということだ。常に対岸の自己を喪失せず、要所要所で視点を使い分けなければならない。
だから、組織にまだいたいと思うなら対角線上の自己は出しすぎてはならないし、かといって現場に慣れてしまうと、喪失してしまう。だから、時々確認しなければならない。小生が先日書いた痛烈批判は、単身赴任したオヤジが一週間に一回くらいは財布の中の娘の顔を見て家庭を思い出すのと似ていて、ちょっと鈍くなってきたかなと思ったら一度雑念を一掃してああいう心境に至らなければならないのだと思う。

さて、これは政治の世界においてはどうだろうか?
熟考するまでもない。仕組みは同じだろう。

いつの日か「ある議員先生に寿司をおごってもらった」話をしたことがあるが、実はこの議員先生とは後にも前にもこの一度しか話をしたことがないのだが、小生にとって非常に身近な存在である。
元々、住んでいた所の区議会議員だったので、名前は小学生の頃からポスターで見て知っていた。そして、大学に入って、先輩にあたる人であることを知る。そして、色々な事情があって、インタビューをすることになる。そういったご縁があったためについでながらホームページを拝見したら、あくまで観念的なキャッチコピーだが主義主張が非常に小生の心を動かすものがあり、今こうしてブログのネタにしている。勘の良い方はもう誰であるかお気づきであろう。
さて、この議員先生が、「政治の世界に『情』はあってはならない」と強く主張していた。はじめ小生は若干の抵抗を覚え、同時に「そう言いながらもあなたは会派に所属し、時として意志に反する取り決めにも従ってるじゃないか」等々心の中で思ったのだが、今改めて氏の言葉を思い出してみると、納得できる部分がある。
「君にまとまった票をあげるから、その代わり俺らの団体の利益に適う計画を提起してくれよ」と言われ、言いなりになる、いわゆる族議員。これがつまり氏の批判する「情」というものの典型例だと思うが、おそらく言いたかったのはこれだけではないと思う。
政治家は、下手をすれば24時間公人として、日々いかに国を良くしていくか、どうしたら国益に適う発展へ導けるか、わが町、わが県、ひいては国全体を見渡して議論を進めていく。こうした立場にあっては、もはや一個人を超越している。そうした中にあって、国の来し方行く末を決定付ける大事な会合に、風邪を引いたとか友人の鍋パーティーがあるとかで欠席することは、もはや許されない。極端な話、政治家には己の母の葬式よりも優先すべき使命がごまんとあるのだ。
そこまでの覚悟があって、彼は「政治の世界に情があってはならない」と言い切ったのではないかと思う。

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さらに発展させて考えてみた。

危機的状況を救うためには、時として痛みを伴う変革を行わなければならない。痛みを伴う変革が必ずしも人々に歓迎されるとは限らない。むしろ、危機的現状に気付いていない連中を救うための変革なのだから、連中にとっては納得いかないものである可能性も多々ある。
ここで変革者=救世主=ヒーローはどうするか。一切の情念を切り捨てなければならない。今現在の人々に理解されなくても、誤解が生じていても、救う道が他にないのだから、信念を貫いて、やるしかない。嫌われ役に徹してでも、やるしかない。そんな場面があるはずだ。

そうして、変革をやり遂げて、その後どうするか。
黙ってその場を去る。それしかない。

もし変革を遂げて以降もそのコミュニティに居続けたら、コミュニティの人々はどうなるか。
考えられる結果としては第一に、「情」が反動的に強大なものになり、もはや処理しきれないものとなる。変革者はヒーロー扱いされ、神格化され、崇められる。当人としては気持ちがいいかもしれないし、変革を行った当然の見返りと感じるかもしれないが、しかしこれは危険だ。
何故なら、そうして崇拝されることで、自身はそのコミュニティから何があろうと抜け出せない状況に陥る。また困りごとがあったらその都度頼りにされるし、何でもかんでも願いを聞いてやらねばならなくなる。
同時に、コミュニティの人々はその変革者なしに生きられなくなる。依存だ。優しさは時として相手を駄目にする。自分なしで生きられない状況にしてしまっては、放棄も出来ないし、一生尽くし続けなければならなくなる。それを少しでもやめると、「裏切り者」「寝返った」と必要以上に悪者扱いを受ける羽目になる。

あるいは別の可能性としては、絶対権力として君臨し、脅威となるかもしれない。
「彼は我々の恐れる怪獣をやっつけてくれた。地球上の誰よりも力を持っている」と最初は歓迎される。しかし、やがて人々は恐怖を抱くようになる。「この人は誰よりも力がある。ひょっとして、今度は我々を支配し地球を我が物にしてしまうのではないか…」
そして、人々はヒーローが国に帰ってくれることを期待する。元々ヨソ者だったのだから。それができないと、やがて一致団結してヒーローを引き摺り下ろす暴動を起こすかもしれない…
それをまさに象徴しているのが、「桃太郎のその後」だ。

ここまで書くとさすがに飛躍しすぎているよう思われるかもしれないが、あくまで極論であって、政治の世界でも社会でも日常生活でも、「依存」「優しさ」といった根幹にあるテーマは同一だ。

ウルトラマンは、敵を倒す仕事を終えたら去って行ってくれるから丁度いい。いつまでも居続けると、待遇しなければならないし、そのパワーの標的が自分らに移る危険性もはらむし、ウルトラマンなしに生活できない弱体化した人間社会になってしまうかもしれない。

ヒーローは常に孤高の人だ。
ソンナモノニ、ワタシハナリタイ。


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コメント 3

ABC

ウルトラマンは怪獣を倒すだけではない。
怪獣を保護することも行っている。

また、「怪獣=敵」というのはあまりにも短絡的発想である。
「ウルトラマン」を引用するのであれば、もっと「ウルトラマン」をよく見ろ!
(「ウルトラマン」を山車に使うな!)
by ABC (2005-07-06 03:43) 

うーん

せっかくいい文だったのに、こんな低次元なコメントで場がしらけてしまうのは残念でなりません。
ウルトラマンについてよく見ろっていうけど、ウルトラマンマニアじゃないんだし、この引用の仕方に問題は感じないけど。
by うーん (2005-07-06 10:39) 

えいこう

読ませて頂きました。
身辺批判記事について「辞めます宣言か?」と感じ取った方もいられるのではないかと思われるのは、杞憂でしょう。少なくとも私は、そういった印象は受けませんでした。
両記事を読んで、
「自身の将来を見据えながら、現在における身の処し方を考えている」
そのように拝察致しましたが……。
by えいこう (2005-07-07 19:39) 

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